東欧が抱える幻滅 自由否定の根に「歓迎されない恨み」

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聞き手・宋光祐 佐藤達弥
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インタビュー リュボミール・トパロフさん(国際政治学者)

 1989年11月9日。欧州を「東西」に長く隔てたベルリンの壁が崩壊し、旧東欧諸国に「自由」が訪れた。ブルガリアの高校生だったリュボミール・トパロフさんは当時を鮮明に思い出す。それから30年。東欧では各地でポピュリズムが台頭し、民主主義を脅かす。「自由と民主主義」の輝かしい未来は、幻想だったのか。

バック・トゥ・ザ・フューチャーに衝撃

 ――世界史に残る出来事となった「ベルリンの壁崩壊」の記憶は今も鮮明ですか。

 「崩壊の翌日、1989年11月10日の金曜日。壁の撤去作業が始まった日のことを、分単位ではっきりと覚えています。ブルガリアの首都ソフィアで高校1年生だった私は、ラテン語の小テストをさぼるため学校を休みました。授業が終わったことを確かめようと、学校の近くに住んでいた友人に電話するとこう言われました。『テストなんて忘れろ。独裁者が去ったんだぞ。知らないのか』と」

 ――東欧のブルガリアは当時、共産党の独裁政権でした。政権崩壊の予兆はなかったのですか。

 「少なくとも私は知りませんでした。友人との電話では、あまりにもひどい冗談だと言葉を失いましたから。私たち家族は電話をかけるときは、近くのジャーナリストの家で借りていました。盗聴されていたはずですから、不用意な冗談は危険だと思ったのです」

 ――全く信じられなかったと。

 「共産主義の崩壊を信じられなかったのは私だけではなかったと思います。ベルリンの壁崩壊からまもなく、父に『独裁が終わると思っていたか』と尋ねたことがあります。答えは『ノー』でした。大人たちも共産党が血を流すことなく権力を放棄するとは思えなかったのです。小学生の時にソ連の指導者ブレジネフが亡くなり、その後ゴルバチョフまでソ連の政治指導者が3人交代しましたが、私たちの国は何も変わらず、変化の兆しを感じるのは難しかった」

 ――同じ旧ソ連圏の東欧ポーランドではすでに民主化の動きが始まっていました。ブルガリアには民主化運動はなかったのですか。

 「旧ソ連圏で、ブルガリアは…

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