【動画】駐日タイ大使公邸を大使に案内してもらった=太田成美撮影
[PR]

 JR目黒駅からしばらく歩くと、ヨーロッパを思わせるゴシック・スタイルの建物が現れる。約8千平方メートルの敷地に立つ、石壁の3階建ての洋館は、1943年から駐日タイ大使公邸として使われている。なぜこの建物が大使公邸となったのか。11日にあった報道機関向けの公邸見学会で、歴史の重みに彩られた内部を、バンサーン・ブンナーク大使が案内してくれた。

時代の荒波をくぐった洋館

 童話に出てきそうな装飾の施された重厚な扉を抜けて公邸に足を踏み入れる。「サワディーカップ(こんにちは)」。笑顔で迎え入れてくれたブンナーク大使にまず案内されたのは吹き抜けの大広間。「何が一番目にとまりますか?」と聞かれた。2階へと続く階段は、ブロンズ製の彫刻で飾り付けられている。部屋の隅には、白いビーナス像が鎮座していた。一呼吸したのち、ブンナーク大使は、両手を広げても収まらないような、嵐の海が描かれた絵画を指した。

 洋画家の前田寛治(1896~1930)の作品で、千葉・銚子の海が描かれているのだという。

 「銚子の海なのは、ヒゲタ醬油の製造拠点があるからかもしれません」

 古い洋館とタイ大使。そこにヒゲタ醬油ゆかりの絵――なぞの組み合わせだが、建物の由来を聞けば納得できる。

 洋館は1934年、実業家の10代目浜口吉右衛門によって建てられた。浜口は芸術に深い造詣(ぞうけい)を持つ人物だったといい、建物の至る所には浜口が収集した絵画や彫刻が飾られた。そして、浜口の弟はヒゲタ醬油(東京都中央区)の初代社長。だから銚子の海の絵かもしれないのだという。

 浜口の建てた洋館は、第2次世界大戦中の1943年にタイが浜口から100万円で購入したのだという。タイ大使館によると、当時、日本政府による金属類回収令により、建物や美術品が失われる危機にあった。浜口は友好国のタイに譲渡することで、建物や美術品、調度品を接収から守ろうとした可能性があるという。「1バーツ1円の時代。安くはなかったでしょう」とブンナーク大使は話す。

「ラストエンペラー」の弟にもゆかり

 ダイニングルームに移ると、赤い大理石を使った暖炉が目を引いた。火をくべる形ではなく、当時最新のセントラルヒーティングが導入されていたという。「ここはお見合いの場所です」とブンナーク大使は紹介した。

 そこは浜口のめい・嵯峨浩(さが・ひろ)と、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)の弟・溥傑(ふけつ)の出会いの場だった。嵯峨浩は一時期をここで暮らしていたといい、1937年に溥傑と結婚した。

 結婚式を控え、この家の玄関で、2人が婚礼用の衣装に身を包んで撮った写真も残されている。公邸には中国製のついたてなどもある。「結婚の記念にもらったのではないか」とブンナーク大使は推測する。

600年の友好の宝

 ブンナーク大使は新婚旅行で日本を訪れて、銀座や鎌倉の大仏を見たという親日家だ。2016年の駐日大使就任後からこの公邸に暮らしている。「この公邸に住むことができて光栄です。生きているミュージアムの中にいるような感じ。大事な会談中もアートを見て会話が弾み、非常にいい雰囲気になる」と話す。

 日本とタイは外交関係を樹立して132年だが、「友好の歴史は600年前にさかのぼることができる」とブンナーク大使は話す。アユタヤ王朝に日本人町がつくられ、江戸時代初期には山田長政が王室の傭兵(ようへい)隊長として活躍したという。

 「この公邸はタイと日本にとって非常に重要な場所。タイと日本の共有する宝だと思っています」とブンナーク大使。

 歴代のタイ大使は、古い友好国の建物や美術品を、修復をしながら、譲り受けた当時のまま大切に守ってきた。重厚な洋館の華やかなインテリアには、両国の深い絆がにじんでいた。(太田成美)