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 オリンピックで一番苦労したこと。それは、キムチの味付けだった。

 1964年、戦後復興をかけた東京五輪。上原一彦さん(78)は代々木選手村の食堂で、準備も含めて約2カ月間、各国代表の胃袋を支えた。当時23歳、300人いた料理人のなかで、最年少だった。

 料理人ごとに担当が分けられ、アジアや中東の選手たちを任された。しかし、専門はフレンチ。韓国料理に関する知識なんてまるでない。キムチの味なんて、ちんぷんかんぷん。とりあえずニンニク、ペッパーソース、唐辛子をつかって白菜を漬けてみた。選手にも教わりながら、見よう見まねで辛さを再現した。

 調理場は目が回るような忙しさだった。アスリートが何をどれくらい食べるか読み切れず、調理に常に追われていた記憶しかない。人気があったのは、ステーキやエビフライ、ソーセージ。当時は日本食が海外で知られておらず、メニューには寿司(すし)すらなかった。

 上田市に生まれた。当時は斬新だったフランス料理人を目指し、60年に軽井沢町の名門、万平ホテルに就職。ホテルの推薦もあって、選手村食堂の料理人に抜擢(ばってき)される。

 食堂の責任者の一人だった、帝国ホテルの故・村上信夫総料理長の言葉が忘れられない。「頑張ってやりなさい。期待しているから」。実は渡仏が決まっていたが、「一生ないかもしれない」と思い、五輪を捨てる選択肢はなかった。

 世界94カ国と地域の選手団ら7千人が利用した選手村。食堂は、アジア・中東選手向けの「富士」、欧米選手中心の「桜」、女性専用の3カ所が設けられ、期間中にあわせて60万食が提供された。

 国を挙げてのビッグイベントで、目を丸くしたことがある。冷凍のホウレンソウを使ったことだ。「日本の食に最先端技術が入った瞬間だった。これがオリンピックか、と」。巨大な胃袋を満たすため、調理場では冷凍食品の活用に踏み切った。当時の料理界において、大きな挑戦だった。

 外国人の口に合う食事が日本人につくれるのか、という懸念も付きまとった。食の日本代表として集った料理人がタッグを組み、まさに「ワンチーム」となって挑んだ。

 「選手村は、まさに『世界』だった。裏方も絶対に負けないぞという意気込みを持たないと、選手たちを心から盛り上げ、もてなすことはできないということを知りました」

 大役を終え、本場フランスへ。本格的な修行と世界を知った五輪シェフの経験を糧に、長野市にフレンチ店「ビストロ クエルド クエル」を構える。76年のことだった。

 開業以来、信州の人たちを盛り上げ、もてなしてきた人気メニュー「ステキなミスターQdeQステーキ1964」は、選手村で覚えた一品だ。上質な和牛ロースを使ったボリュームのあるステーキに、オリジナルソースを添える。まもなく料理人として「還暦」を迎えるが、今も娘とともに厨房(ちゅうぼう)に立つ。

 東京からTOKYOへ。56年前は忙しすぎて全く観戦できなかった競技を、今年はみてみたい。(佐藤靖)

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 今年の東京五輪・パラリンピックの選手村では、四つの食堂で1日最大6万食が提供される。栄養や宗教に配慮した各国料理のほか、日本の味を楽しめるメニューが予定されている。時代は変わり、運営を担うのは給食事業大手の「エームサービス」(東京)。1998年の長野五輪でも担当だった。