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 中国・唐時代のエリート官僚で書家の顔真卿(がんしんけい)(709~785)が書いたとみられる石碑が、中国沿海部の浙江省(せっこうしょう)でみつかった。権力者にもこびない剛直さから何度も左遷された末の最後の赴任地だった湖州(こしゅう)(現在の浙江省湖州市)で、69歳のときに筆をとったとみられる。石碑が実在することは知られておらず、研究者が新史料として注目している。

 石碑は、明治大学元教授の氣賀澤保規(けがさわやすのり)さん(中国史)が10月、所蔵先の浙江大学芸術考古博物館(浙江省杭州市)で確認した。高さは約112~133センチ、幅約120センチ、厚さ約40センチ、もともとの高さは270センチ以上あったとみられるが、下半分以上は斜めに割れてなくなっている。

 顔真卿は、都の長安(現・陝西省西安市)に生まれた。科挙(官僚登用試験)の中で最難関の進士科に合格し、中央省庁か長安郊外に配されて、エリート官僚コースを歩んだ。書家としても、書聖といわれた王羲之(おうぎし)と並び称され、弘法大師(空海、774~835)や榊莫山(さかきばくざん)(1926~2010)ら、後生の書家に影響を与えた。

 この官僚が、なぜ左遷されたのか。

 8世紀中ごろの中国は、唐の全盛期をもたらした玄宗(げんそう)皇帝が治世の後半になって楊貴妃を寵愛(ちょうあい)するなどして政治が乱れ、楊貴妃一族の楊国忠(ようこくちゅう)が宰相となって実権を握った。そんな中、45歳の顔真卿は正論を貫いて宰相を批判し、753年に平原(へいげん)(現山東省)の太守(長官)に出された。表向きは昇進人事だが、中央のラインから外される「左遷」だった。

 755年には唐王朝を揺るがす…

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