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 お正月の定番と言えばおせち料理。お重の中に、たくさんの種類の料理がひしめくイメージですが、意外にもその歴史は新しいそうです。そもそもおせちには、どんな由来があるのでしょうか。

もとは神様へのお供え

 おせちを漢字で書くと、「御節」。正月のほか、ひな祭り、七夕などの五節供(せっく)(今は節句)に神様に供えた「御節供(おせちく)」が語源といわれる。江戸時代後期の書物には、「節供は神に供えるもののことを言うのに、女子どもは正月の食べもののことだと思い違いをしている」という内容の記述があり、このころには「おせち=正月料理」となっていたことが分かる。

 数の子、田作りなどおなじみのメニューも江戸時代にはすでに作られていた。当時、各地の習俗を調べた「諸国風俗問状答(といじょうこたえ)」には、「数の子、田作り、たたきごぼう、煮豆」の4品が江戸では定着していたとみられる記述がある。

 現在のおせちは、「一の重」に「口取り」、「二の重」にブリやエビなど魚介の焼きもの、「三の重」になますなど酢の物、「与の重」に煮物を詰めるのが「正式」とされている。口取りというのは会席料理で最初に出すものの意味で、主に宴が終わって自宅に持ち帰って食べるものだった。江戸時代の「基本の4品」や、かまぼこ、栗きんとん、だて巻きなどがそれにあたる。

大正時代にすでに「洋風おせち」

 ただ、この形式が全国的に広まったのは、意外に新しい。

 国立歴史民俗博物館の山田慎也教授によると、大正から昭和の初めにかけておせちの中身が模索され、戦前に今のおせちの基本ができたものの、戦争を挟み、全国に画一的に広まったのは、高度成長期以降という。団塊の世代が上京し、核家族化して地方の食の伝承が途切れ、雑誌やテレビの料理番組で紹介されるものがお手本になった。

 山田さんは、明治の終わりごろに創刊された「婦人之友」「婦人画報」といった雑誌を手がかりに、各時代のおせちの規範を研究している。江戸時代の「基本の4品」に、かまぼこときんとんが加わったのが明治時代。現在の定番の一つ「だて巻き」は、元々プロの料理だったが、大正時代に女学校などで調理を教える「割烹(かっぽう)教育」や大人向けの料理教室が盛んになり、家庭のおせちにも入るようになったという。

 大正期には「刺し身のお重」「サンドイッチやチキンゼリーを詰めた洋風のお重」などが紹介されており、お重の詰め方も中身も模索されていた。それが昭和に入り、口取り、焼きもの、酢の物、煮物の形に落ち着いた。

 また、戦時中には外地に出兵していた人たちにも正月気分を味わってもらおうと、かまぼこ、きんとん、田作りなどを詰めた缶詰が作られたこともあるという。

重箱を出るおせち

 昭和後期から百貨店が扱うようになったおせちのお重詰めは、核家族化や共働きの増加が進んだ平成の間に支持され、「作るもの」から「買うもの」への流れはさらに強まった。

 しかし、「婦人画報」のおせち特集を20年にわたり手がけてきた平田剛三さんは「ここ数年は『やっぱり何品かは作りたい』という揺り戻しがある」と言う。90年代の新年号は毎年のように有名料亭のおせちを紹介しているが、その後は「おせちの基本」をおさらいする内容が増えている。

 また、最近ではコンビニの「ローソンストア100」が、少量を1品100円で売る「100円おせち」がヒットするなど、おせちとセットだったはずの重箱が、なくていいものになりつつある。婦人画報でも今年は「時代は“詰める”から“盛る”へ」とうたい、お皿に盛るおせちを特集している。〈連載「現代迎春考」〉(栗田優美)