[PR]

 「新・東洋の魔女」と呼ばれ、1976年モントリオール五輪で金メダルを獲得した女子バレーの主将・神白(かじろ)(旧姓飯田)高子は、屋根も照明もない屋外のコートで練習に励んだ。名古屋市昭和区の中京大名古屋キャンパス。法学部の建物と、陸上競技用のトラックの間に、今は使われなくなったグラウンドがひっそりと残されている。

 神白の大学時代、体育館は他部が使い、バレー部の練習はいつも屋外だった。日が暮れればあたりは真っ暗。監督の指導が長引けば、泥だらけで車のライトを照らして練習を続けた。

 弥富町(現愛知県弥富市)で生まれ、小学生ですでに周囲より頭ひとつ背が高かった。様々なスポーツに挑戦したが、中学3年でバレー一本に絞った。名古屋女子商高から、バレーの実業団「帝人名古屋」へ。だが、繊維不況で約2年後に廃部。体育教師をめざそうと両親の反対を押し切って中京大に進み、卒業後はバレーはやめるつもりだった。

 実業団経験がある神白は、中京大バレー部でも実力は段違い。年も同級生より二つ上だ。「全部あなたがフォローして」と先輩に言われ、1年からチームを引っ張らなくてはならなかった。「ついてきてもらえる人になろう」と心に決め、試合は一番にボールをカットし、整列時も先頭を切って列に並んだ。日本代表に選ばれ、遠征も多かった。それでも、大学の試合の日は必ず戻った。

 日本代表の練習は、朝9時から深夜まで3食抜きで猛特訓の日々。バレー部で同級生だった大津順子は、満身創痍(そうい)で戻り、痛み止め注射を打って大学の試合に臨む神白の姿を覚えている。明るくてひょうきんだが、努力も人一倍。「イーチョン(飯田)のためなら何でもする、と周りに言わせる力がある人でした」。3年の秋、満場一致で主将になった。

 26歳で出たミュンヘンは決勝でソ連に惜敗し、銀メダル。引退したが、4年後のモントリオールへ、まとめ役として監督の山田重雄に復帰を促された。「必要としてくれるなら戻りたい」。ポジションは、大学以来の主将だ。

 チームがうまくいかないと「主将が悪い」と監督に怒鳴られた。家で毎日1人で泣いた。「背番号1」を背負うからには人前で弱音は絶対に吐かない。「まわりがついてくるかは、自分が前に立ってどれだけできるか」。大学で得た主将の極意を胸に、練習に明け暮れた。

 モントリオールも、決勝に再びソ連が上がってきたが、今度は日本が圧勝。神白は最終セットに出場し勝利を見届けた。

 73歳のいま、埼玉県で地元チームのバレー指導や、大会運営に携わる。2年前、当時の同級生と大学の屋外コートを数十年ぶりに訪ねた。周囲の雑木林には校舎などが整備され、コートの景色は一変。「しっくり来ないね」と笑いあった。=敬称略(小松万希子)

銀メダルにも意味はあった

 ミュンヘンでのソ連との決勝は2時間半を超える死闘となった。最終セットで1点差まで追いついた時、神白さんの放ったサーブがネットにかかり、流れが変わった。日本は力尽きた。

 「恥ずかしくて外を歩けませんでした」。日ソ2強時代で金以外は負けだった。どこにいても「あのミスのせいで」と指をさされているような気持ちだった。銀メダルは自室の奥に隠すようにしまい込んだ。

 モントリオールで金をとった後、銀メダルにも意味があったと思えた。「引退から復帰してがむしゃらに金をめざせたのは、銀で終わりたくない気持ちがあったからだと思います」