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 戦後日本のあり方を規定してきたのは、米国との関係だった。その基本を記した

日米安全保障条約が現在の形に改定されて60年の節目を、19日に迎える。冷戦の産物だった安保は、激変する国際環境に対応できるのだろうか。沖縄の米軍基地問題に象徴される安保の「負担」を、日米でどう分かち合っていくのか。日米安保・歴史特集では、戦後史を追いながら、こうした問題を考えていきたい。今回の第一弾は、現在の条約の前身である1951年の旧安保条約を取り上げる。そこに戦後日米関係の原型があるからだ。安保誕生の裏に何があったのか。

 時計の針は夜8時をまわっていた。1951年9月7日、米サンフランシスコのオペラハウスで開催中の対日講和会議。日本の首席全権である首相、吉田茂が演壇に立ち、講和条約受諾演説を読み上げていた。

 「わが国民は極東ならびに全世界における隣邦諸国と平和のうちに住み、その社会組織をつくり直して、すべての者のためによりよい生活をつくらんとする希望に燃えております」

 外務省が演説原稿を完成させたのは同日午前4時(外務省「平和条約の締結に関する調書」=調書)。事前に内容を知りたいとの要請を受けて、外務省は米側に原稿を示した。

【特集】日米安保の現在地
60年前の1月19日、旧安保条約が改定され、現在の日米安全保障条約が調印された。国際秩序の構図が大きく変わるなか、変わろうとしている日米同盟の性格。「日米安保の現在地」を探る。

 午後になって米国の講和担当特使ダレスから、演説末尾に加筆してほしいと英文(日本語に訳すと約560字)が届けられた。ダレスは関係国を回って条約をとりまとめた人物だ。

 吉田は渋々、加筆を認めた。右に引用した吉田の演説はその一部だ。戦後世界に向けた日本の再出発の決意表明はこうして、米外交官によって書き込まれた。

 会議が終わって議場を出ようと…

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