日本とソ連(当時)が1956年に国交を回復した日ソ共同宣言に向けた大詰めの交渉では、どのようなせめぎ合いがあったのか。当時外務省がまとめた記録に、生々しいやりとりが残っていた。
「三木文書」から見えた キーパーソンらのせめぎ合い
「余りよい協定ではないけれども……」。日本側のキーパーソンの一人が漏らした言葉だ。故・三木武夫首相のもとにあった外務省作成の「日ソ交渉会談録」。北方領土の扱いは、米国との関係は――。そこからは、敗戦国日本が冷戦で米国の傘下に入って間もない頃の交渉の難しさが、改めてしのばれる。
安倍晋三首相は今月の施政方針演説で「56年宣言を基礎として交渉を加速させ、領土問題を解決して、平和条約を締結する」と強調した。ソ連の後身、ロシアとの今の交渉に通じる駆け引きを、「三木文書」から再現する。
河野農相「まことに済まない」
56年10月、鳩山一郎首相率いる日本政府全権団がモスクワに入った。前年からの交渉は北方領土問題で難航し、国境線を確定する平和条約の締結は頓挫。国交回復を共同宣言の形で示しつつ、そこに領土問題をいかに書き込むかが焦点になっていた。
政権をあげて交渉に挑んだ鳩…