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 貫田宗男さん(68)は日本テレビ系の番組「世界の果てまでイッテQ!」の登山部で活躍しています。画面ではひょうひょうとした語り口で、氷点下の環境で「(テントの中は)天国だよ天国」と発言して「天国じじい」というあだ名もついていますが、素顔は先鋭的な登山家であり、世界の高峰にチャレンジする遠征隊を支援する会社の創業者でもあります。1970年代からヨーロッパアルプスやヒマラヤで困難な岩山、雪山に挑み続けてきた貫田さんによれば、現代のヒマラヤ登山の象徴は、雪山登山に不可欠な道具である「ピッケルすら不要」になったことだと言います。どうして8千メートル峰にピッケルなしで登ることが出来るのか。貫田さんに、自身が見てきた半世紀に及ぶヒマラヤ登山の変遷を聞きました。

植村直己が登頂した陰で

 私が若手のクライマーとして遠征に参加した70年代から80年代は、「極地法」が主体でした。大きなベースキャンプ(BC)を設け、そこから多くの隊員と高所ポーターが大量の荷物を分担して何度となく運び上げます。ルートの多くの部分に固定ロープを張り、尺取り虫のように頂上に向かっていくつかのキャンプを設営していきます。しかし、頂上に立てるのは、隊員の中の一握りの人でしかありません。

 例えば、70年、日本人が初めて世界最高峰エベレスト(標高8848メートル)に登頂した時は、南側のネパールの標高5100メートルの地点にBCを設け、実に途中六つのキャンプを設営、BC入りしてから登頂まで50日弱かかりました。

 BCに集めた食料や登山用具など総計30トン、39人の隊員のほか、現地で高所ポーターも雇い荷上げに汗を流しました。登頂した隊員は、後に世界的冒険家として名をはせる植村直己さんら3人だけでした。

 未踏峰が多かったころは、頂上に立つ確率を高めるために、極地法を採るしかありませんでした。しかし、極地法は膨大な資金が不可欠で、スポンサーを募らなければならず、誰でも実現できるわけではありません。しかも、多額の自己負担金はやはり必要で、貴重な時間も投じて隊員になっても、必ずしも頂上に立てるわけではなく、不満も大きかったのです。

 それで、80年代半ばから、世…

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