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 前回まで、病気の原因はさまざまな視点から考えるべきだというお話をしました。細菌やビタミン欠乏などの小さい視点からみた原因が不明であっても、上水道や手洗いや食事の工夫で病気を防ぐことができます。

 ただ、原因が判明しても現実世界において病気を予防することはかなり困難であることも医学史からはわかります。海軍軍医の高木兼寛によって麦飯中心の食事が脚気を予防することが1884年に示されましたが、陸軍ではあいかわらず脚気が発生し、日露戦争(1904~1905年)では大量の死者が出ました。通説によれば、海軍では脚気による死亡者はゼロだった一方で、陸軍では敵軍の攻撃による戦死者以上に兵士が脚気で亡くなったのだそうです。

 1911年にビタミンB1が発見され、1924年には日本でも公的に脚気の主因がビタミン欠乏であることが認められました。これで脚気が減少すると思いきや、あまり変わりませんでした。太平洋戦争で食糧事情が悪化して脚気が増えたのではなく、戦前から年間に1万人前後の人が脚気で亡くなっていました。日本の脚気が終息するのは戦後になってからです。おそらく、白米を好む食文化のためでしょう。戦前戦中の日本は白米こそがごちそうで、十分な副食を食べる習慣ができるまではビタミンB1不足に陥りやすかったのです。

 ハンガリー出身の医師、ゼンメルワイスが示した産褥熱(さんじょくねつ)を手洗いで防げるという事実も、医学界にはすぐには受け入れられませんでした。その理由として、当時の学説と相いれなかったことや、ゼンメルワイス自身が自説の発表に消極的だったことなどが考えられますが、医師自身の手が病気の原因だと認めたくなかったという要因が強かったのではないかと私は思います。

 昔に限った話ではありません。コレラの原因はコレラ菌であり、流行は清潔な水で予防できることが100年以上も前からわかっているのに、世界ではまだコレラが流行している地域があります。主な理由は紛争や貧困といった社会的な事情です。コレラの原因はコレラ菌であり、コレラ菌に汚染された水ですが、汚れた水を飲まなければならない原因は上水道などのインフラの不備であり、インフラの不備の原因は紛争や貧困というわけです。

 また、適切な治療を受ければコレラで死ぬことはほとんどありませんが、流行地ではたくさんの人が死んでいます。患者の多くがもともと栄養不良であったり、医療機関へのアクセスが悪く治療を受けることができなかったりするからです。そのさらに上流の原因は貧困です。

 コレラの流行地では医師が個々の患者を治しても問題は解決しません。病気に立ち向かうには医学の視点だけではなく社会的な視点も必要になります。病気はさまざまですから、必要な対策もさまざまです。現在、世界では新型コロナウイルスに対して多くの視点から対策が行われています。小さな視点では手洗いやせきエチケット、大きな視点では人の移動の制限や隔離です。複数の有効な対策を組み合わせることで終息に向かうことを願っています。

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アピタル・酒井健司

アピタル・酒井健司(さかい・けんじ) 内科医

1971年、福岡県生まれ。1996年九州大学医学部卒。九州大学第一内科入局。福岡市内の一般病院に内科医として勤務。趣味は読書と釣り。医療は奥が深いです。教科書や医学雑誌には、ちょっとした患者さんの疑問や不満などは書いていません。どうか教えてください。みなさんと一緒に考えるのが、このコラムの狙いです。