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「……み、緑です! 津軽海峡ルートです! バ、バルチック艦隊は太平洋を進み、津軽海峡を抜けてやってきます!」

 

 

 大日本帝国の連合艦隊は、旗艦“三笠”を先頭に、四隻の戦艦、二十隻の巡洋艦、海防艦、通報艦などを従え、津軽海峡に向かって北上した。ぼくは整備のため港に戻るという“日進”に乗せられ、ほっと一息ついた。高野五十六によると「船底の藤壺(ふじつぼ)をこそげ取らんと速度が落ちるからな」ということらしかった。

 てっきり上海に戻ると思っていたのだが、それはぼくの勘違いで、“日進”は九州北部の海軍基地、長崎の佐世保港に入港した。上海行きの民間船はあさってまで出ないので、それまでの間、海軍の一大拠点たる三角の屋根の鎮守府でお茶を飲んだり、せっかくだからと、造船所など重工業の発展ぶりを見学し、父宛(あて)に報告の手紙をしたためたり、気遣ってくれる高野と、景色の綺麗(きれい)な高台の洋食屋“薄雲亭”で藤壺料理を食べたりした。晩春の海は日差しも強く鮮やかに青い。ところどころに丸い小島が夢のように浮かび、佐世保の晩春は正(まさ)に絶景であった。

 洋食屋の若おかみが、泣く子をあやしながら働いているので、預かり、見よう見まねで遊んでやった。すると高野がぽつりと「うちは、いろいろあってね。ぼくは今は高野姓だが、ゆくゆくは、父が世話になった山本というご家老家の養子になる予定なのだ」と言った。「そうかい。何やら複雑だねぇ。うちの父はね、ぼくより一回り下の後妻をもらい、仲良く暮らしているよ」「おやおや、それも複雑じゃないか」などと話すうちに気心が知れ、気づけば故郷の話にも花を咲かせた。

 そんなこんなで、佐世保で久しぶりにゆっくりした時を過ごし、二十七日の早朝。ぼくは上海行きの民間船に乗ろうと宿を出た。海沿いの魚市場の前で、洋食屋の若おかみとばったり会い、帽子に手を当てて挨拶(あいさつ)する。「そうです。上海に戻るところで……」と立ち話していると、突然空気がドンッと揺れた。ぼくは若おかみを庇(かば)いつつ海を見た。晴れた早朝の青々とした海上に、不吉な黒い船……いや、戦艦が見えた。啞然(あぜん)としていると、触手が不気味に蠢(うごめ)き、次の瞬間、またドンッと音がした。空気が赤く光り、港の一角が粉塵(ふんじん)を上げて吹き飛んだ。非常時を告げるサイレンが、ウーーーーーーーーーーッと鳴りだした。

 近くを歩いていた海軍兵が「バ、バルチック艦隊だーっ!」と叫んだ。ぼくは「あぁ! 緑の津軽海峡ルートじゃなかったのか……」と頭を搔(か)きむしった。「いや、でも、赤の対馬海峡ルートからきたにしても、なぜ日本海を北上してウラジオストクに向かわず、佐世保に現れたんだ……!」と叫ぶと、海軍兵が振り返り「さっぱりわからん!」と答えた。

 とにかく港から離れねばと、若おかみの手を引いて走りだす。背中の子が重いと言うので、ぼくが背負い、坂の多い町を逃げ惑う。振り向くと、港に戦艦が、一、二……三……四……五隻もいた! 大砲が撃ちこまれるたび、港のあちこちが花火のように爆発する。

 海軍の鎮守府に駆けこみ、高野五十六を探す。ほどなくみつかったが、「バルチック艦隊は本日早朝、赤の対馬海峡ルートから姿を現した。連合艦隊の姿が見えず、戦闘の必要がなかったため、どうやら二手に分かれることにしたらしいが……」と首を振った。

「バルチック艦隊の半分強は、予定通りウラジオストクへ。乗船している屈強な陸軍兵を下ろし、ウラジオストクから満州に向かわせ、日本陸軍を殲滅(せんめつ)する作戦だろう。残りが九州北部の長崎へ。佐世保港を落とし、九州をロシア領とし、造船や製鉄など重工業の本拠地を奪う作戦ではないかと……」

「な、な、なっ……」

 ぼくは絶句した。た、たっ、大変なことになってしまった……。い、今すぐ、そうだ、とっ時を……とと、時を巻き戻さなくちゃ! いや、妻に、レバーを引くよう頼んだのは、二十八日、つまり明日の正午だ。あぁ、あと、丸一日……。

 ドンッと大砲の音がし、鎮守府が揺れた。「ここはかえって危ない!」と高野くんに怒鳴られ、ぼくは若おかみを連れて裏口から外に出た。町は火事になり、橙(だいだい)色に燃えていた。右往左往するうち、お昼が過ぎ、やがてロシア兵が続々と上陸してきた。ぼくらは燃えるもののない墓地に隠れると、墓石の陰で震えた。塀越しに悲鳴、怒声、銃声、そしてバシャッと誰かの鮮血も飛んできた。あぁ、戦争だ、戦争なのだ、これは……。妻の(この国の人も、朝鮮の人も……住むとこなくなっちゃって大変ね……)という声をふと思いだす。これまで日本は大陸に遠征して戦争していたが、ついに敵に上陸された……。かつて自分が田辺保と森漣(れん)太郎に描いてみせた逆さ地図のことも思いだす……。日本はいま、国防に失敗し……本土を侵略され……。

 墓地の周りは火の海で、燻(いぶ)されたような猛烈な暑さだった。若おかみの赤子がこの世の終わりのように号泣する。夜になると、暗闇と寒さと炎と熱が入り混じり、地獄のすぐそばにいるようだった。だが夜明けとともに鎮火し、やがて焦げ臭い空気をはらんだ朝日が差した。

 井戸の水を汲(く)み、若おかみと赤子に飲ませ、顔も拭いてやる。すこし眠る。やがて教会の鐘の音ではっと目を覚ました。一時間ごとに鳴らすのだという。ぼくは鐘を数えた。正午まであと少し……。鐘の音を頼りに、時が巻き戻り、悪夢と化したこの四回目の世界から、五回目の世界に逃げられる時を、ただ待った。

 昼にかけ、墓地に逃げこんでくる人が、一家族、一家族と増えた。ロシア兵に夫を殺されたとか、子供が連れていかれたと口々に言う。みんなで気配を殺して墓石の陰に隠れる。もうすぐ十二時。悪夢は終わる。時は戻り、殺された同胞も生き返る。と……墓地の外を歩く足音と、ロシア語らしき言葉を話す声が聞こえてきた。ほっ、遠ざかっていくぞ……。そのとき若おかみの赤子が「ほわっ……」と目を開けた。あ、泣きだしちゃう……。

 若おかみが、自分も泣きそうになり、ぼくを見た。男たちが「泣かすな!」「みつかる!」と詰め寄る。間に入るが、皆もう目の色が変わっている。「黙らせろ。母親だろう」「ど、どうやってですかぁ……」「一人の命とここにいる全員の命を比べてみろ!」「あっ、あなたは、自分の子を殺せって言うの……?」「できないなら俺がやる!」と赤子を奪われそうになる。ぼくは「やっ、やめてくださいぃぃぃ……」と体当たりし、赤子を取り返して墓地から飛びだした。

 外は一面の焼け野原だった。景色が黒かった。若おかみが腰を抜かし、歩けなくなる。と、角を曲がってロシア兵の一団がやってきた。ぼくは空を見上げた。

 自分もこの母子を見捨てようか……。だって、もしここでぼくが死んだら、時が巻き戻っても、四回目の世界の記憶をなくしてしまい、司令長官にバルチック艦隊の正しいルートを伝えられなくなる。民間人二人の命より、日本人全員の命と、国家の命運を、男なら、選ぶべきだ。これは自明の理だ。

 若おかみが、腰を抜かしたままぼくを見上げた。ぼくは急に、「ぼくの母親、物心つく前に死んで。父親と二人暮らしだったんですよ……」と言った。なんでそんなことを言ったのか自分でもよくわからなかった。ロシア兵の前に立ちふさがる。頭一つ分背が高く、筋骨隆々としている。拳銃を向けられ、手を上げる。何か怒鳴っているがロシア語なんてわからない。

 正午の鐘が鳴り始めた。あぁ、ようやく……。間に合ったようだ。ロシア兵が銃口をぼくの胸にむけた。いまだ、時よ巻き戻れ!「フェニックス、フライ……」とつぶやき、ニヤリとする。鐘が鳴り終わる。

 おやっ……?

 ぼくはあわてて空を見上げた。

「ちょっと、お夕ちゃん? レバー、金のレバーを引いて。『うんわかった』って言ってたじゃないか。フェニックス……? ……フライ? お、お夕……?」

 ロシア兵が指に力を込め、引き金を引く。銃口から弾が飛びだすのがスローモーションで見える。ぼくは「あぁっ、まっ、まずいぞ……」とつぶやいた。

「死んじゃう。ぼくここで死んじゃうよ! 全部忘れちゃう! うわぁぁ、お、お夕ちゃーん!」

 つぎの瞬間、パスッと乾いた音がした。胸に火傷(やけど)したような熱を感じ、ぼくははっと息を吸った。

 ついで無言で、ばったり倒れた……。

     ◇

〈あらすじ〉 〈四章 東京 その四〉の続き。日露戦争のさなか、海軍の東郷平八郎は鳳凰機関こと要造に、未来視を要求。バルチック艦隊が通るのは、対馬海峡か、津軽海峡か。要造は当てずっぽうで選び、はずれたら時間を巻き戻す算段をした。