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 読者のみなさんは朝日新聞が「徘徊(はいかい)」という言葉を使わないように配慮していることをご存じでしょうか。この言葉は今でも専門用語ですから、多くの場所で目にすることがあるかと思いますが、それをあえて使わないようにしているのには訳があります。この言葉から「何も分からなくなった人がふらふらと、さまよっている」といった印象を受けますが、決してそうではないのです。

15年前に出会ったある男性

 今回、ご紹介する人のように、たとえ認知症になったからといって「何もわからなくなる人」ばかりではありません。

 私がその人に出会ったのはもう15年ほど前のことです。私の担当患者さんではなく、かつて私が認知症当事者をサポートする活動をしていた時に出会った人でした。その鈴木次郎さん(仮名)は出会った当時、50歳代の男性でした。家族会の代表から紹介されたとたん、彼は私にこう言いました。

 「先生には私のつらさがわかりますか。家族会などで認知症の人が家から出て行って帰れなくなることを『徘徊』と言いますよね。あれって何もわからない人がふらふらとさまよう印象があるじゃないですか。妻も先日、私が家に帰れなくなった後、家族会で悲しそうに『夫も先日、徘徊しました』と発表したのです。横にいて私はびっくりしました。だって、あの時、私は何もわからなくなっていたわけではありませんから」

 よく聞けば、鈴木さんはその日、コンビニにごみ袋を買いに行くつもりだったそうです。ところが家を一歩出たとたんに、自分がどこにいるのかわからなくなりました。

 「その時には頭のなかが真っ白になりました」「どこか自分がいるところをはっきりとさせて、自分が何をしようとしているのかを確認しなければ……」そんな思いがあふれ、鈴木さんは混乱してしまいました。

拡大する写真・図版イラスト・ふくいのりこ

 彼はその時の恐怖、何が起きているのかわからない困惑を私に語ってくれました。認知症は「もの忘れの病気」と言われることが多いけれど、不安や恐怖などの感情を伴ったもの忘れの経験は記憶に残りやすく、彼の心の中にも「忘れられない恐怖」が残りました。

混乱している人を見かけたら…

 このような彼の言葉を聞けば、その時の彼を「何もわからなくなっている人」と考える人はいないでしょう。しかも道がわからなくなって、必死の思いで帰り道を探し続ける彼を見ても「ぼんやりと歩いている」とは思えません。それこそが「徘徊」という言葉を避け、人権に基づいた名称を求める「まなざし」です。

 認知症の当事者が地域で歩いている姿を目にしたとき、私たちはその人が帰り道を探して困っていないか、頭の中が真っ白になるほどの恐怖の中で帰り道を探していないか、しっかりとその人の気持ちを推し量り、寄り添う必要があります。

 しかし、ここで注意が必要です。こころの面を重視するあまり、どんな人も必ず困惑して歩いていると考えるのは過剰な対応になります。認知症に軽い意識の混濁(ぼんやりした状態)が重なっているときなどは、目の前の状況が把握できない場合もあります。そのような場合、先に挙げた鈴木さんのように「悩んでいる」と心理面の解釈だけで対応しようとすれば、かえって本人がより混乱してしまうこともあるからです。

おせっかいでも寄り添う気持ちを

 今回、強調したいのは、われわれが街を必死の思いで歩いている人を見た場合、勇気を出してその人が困っている点を聞くことも大切だということです。善意はあっても、もう一歩が踏み出せないために、様子を見ているだけの人になるよりは、少しおせっかいであっても、その人に寄り添う気持ちを持つことの方が、地域包括ケアの世界では大切です。

 認知症当事者の人権を守り、差別的な名称を症状から消したいという願いは、そのまま地域で認知症を特別扱いすること、冷たく見捨てることがない世界を一人ひとりが目指すことにほかなりません。

 鈴木さんはその後、自らの意思についてできる限り言葉にして私に伝えてくれました。何度も自宅に帰れないことがありましたが、そのたびに「先生、おれは家に帰ろうとしていたんだ」と訴え続けました。まるで彼が「自分はまだ、精いっぱい生きている」と私に人生を生き切る決意を伝えようとしているようにも思えました。

 私がかかわった人の中には、行方知れずになって何日か後に自宅から離れた公園で倒れていたところを発見された男性もいました。頭にけがをしていましたが、後に誰かに傷つけられたことがわかりました。「夜中にその人の周りを何人かの若者が取り巻き、からかいながら公園に向かって歩いて行った」という証言も出てきました。犯人は面白がってからかっているうちに怒り出したその人に逆切れして殴ったこともわかりました。彼らに当事者への共感があれば、このような結果にはならなかったでしょう。

 そこに必要なのは私たちがみな仲間であるという意識です。何も「すべての人は兄弟だ」と博愛を述べているのではありません。時の経過とともに、われわれは誰でも認知症になる可能性があり、場合によっては夜中に「行方知れず」になる危険性を持っているからです。自分たちとは違うと思うところから、その人を侮蔑し、その人に暴力をふるう意識が生まれるとすれば、同じ立場になる可能性があることを社会全体が知り、共生を真剣に考えるべきは「今」なのです。

 次回は「家族にできること」について書きます。

<アピタル:認知症と生きるには・コラム>

http://www.asahi.com/apital/column/ninchisyou/

松本一生

松本一生(まつもと・いっしょう) 精神科医

松本診療所(ものわすれクリニック)院長、大阪市立大大学院客員教授。1956年大阪市生まれ。83年大阪歯科大卒。90年関西医科大卒。専門は老年精神医学、家族や支援職の心のケア。大阪市でカウンセリング中心の認知症診療にあたる。著書に「認知症ケアのストレス対処法」(中央法規出版)など