巨体で支えた相撲人気…最後は笑いもの 出羽ケ嶽の孤独
〈上〉出羽ケ嶽の孤独
出羽ケ嶽という、身長2メートルを超える大人気の巨漢力士がいた。
朝日新聞が1940年前後に制作した子ども向けニュース「アサヒコドモグラフ」にある取組が映っていました。タイトルは「両国の人気男」。そこに映っていたある力士の物語です。
映像は、1939(昭和14)年、東京・両国の回向院境内にあった初代の国技館(のちの日大講堂)での39年1月の春場所、そして、続く5月の夏場所での、出羽ケ嶽の取組だ。
まず、1月場所。小兵力士の攻撃をしのぎ続けた出羽ケ嶽が右でポンとはたくと、相手を一発で土俵の外に吹き飛ばしてしまった。
続いて翌5月場所。出羽ケ嶽は相手を懐に呼び込んでしまい、足を取られて転がされた。映像は、ここで終わる。
小学校入学時に161センチ
出羽ケ嶽は1902(明治35)年、山形の寒村で生まれた(生年は諸説ある)。脳下垂体の異常で、とめどなく体が成長し続ける「巨人症」に侵されていた。小学校入学時に161センチあったという。当時の日本人の体格で考えると、先生と変わらない背格好の新入生だった。だが、体格とは裏腹に、争いを嫌い、隠しようのない自分の体を見られることを嫌う、気弱な少年だったようだ。
その後も体の成長は止まらなかった。相撲博物館の記録によると、1917(大正6)年の入門時に194センチ。新入幕の25(大正14)年には203センチ。31(昭和6)年には204・5センチ――。
同じ山形出身のある人物が、この少年に目をつけた。東京・青山で、ローマの宮殿のような精神科病院を経営する医師・斎藤紀一。ノンフィクション作家・大山真人は、斎藤紀一について、こう記している。
《「日本一頭のいい男と、日本一身体の大きい男を養子にする」と豪語した紀一の特異性》
紀一には幼い娘がいた。紀一はまず、《日本一頭のいい男》を手に入れる。大病院の跡取りとして、まだ9歳だった娘の婿養子に選んだ秀才だ。東京帝国大学医科大学(現東大医学部)の守谷茂吉。のちの歌人・斎藤茂吉である。
そして、言うまでもなく、《日本一身体の大きい男》が、文治郎だ。
山形から東京の大病院に連れてこられた少年・文治郎は養子縁組され、斎藤文治郎となった。世間は、紀一の養子だと信じていたが、実際には、病院に住み込みで学ぶ同じ「斎藤姓」だった別の人物の養子となっていた。
文治郎は、住み込みの他の学生と同じように医学を志した。紀一の支援で進学した青山学院中等科でも、成績は優秀だったという。
だが紀一は、文治郎の夢など関係なく、力士にするつもりだった。
斎藤茂吉の「義兄弟」
紀一の婿養子となった斎藤茂吉は、2人の息子をもうけた。長男が、医師でエッセイストの斎藤茂太。次男が、やはり医師で芥川賞作家の北杜夫。2人とも、それぞれの作品で、「身内」である出羽ケ嶽を描いている。
茂太は、『快妻物語』でこう記している。
《紀一は彼を関取りにするつもりで連れて来たのだろうが、かんじんの彼はそれをきらって医者になるのだと駄々をこねていた》
あの手この手で説き伏せられ、文治郎は、紀一がタニマチ(有力な後援者)となっていた出羽海部屋に入門した。
17(大正6)年1月場所で初土俵を踏む。いまは初土俵で負け続けても、翌場所には「序ノ口力士」に出世し、番付に名前が載る。しかし、当時は勝てなければ序ノ口にすらなれなかった。出羽ケ嶽は、序ノ口昇進に2年かかった。しかし、その後は負け越し知らずで出世を重ね、22(大正11)年1月場所で新十両。ここで初めて負け越すが、26(大正15)年1月場所で、小結を通り越していきなり関脇に昇進すると、連続10場所で三役を務めた。
関脇だった28(昭和3)年1月場所では、29代横綱宮城山や30代横綱西ノ海を破るなど、まさに期待の力士だった。しかし――。
むしばむ症状 それでも人気は…
巨人症に特有の症状が、出羽ケ嶽をむしばんでいく。
医師だった「義兄弟」の斎藤茂吉が、それを勧めたのだろう。出羽ケ嶽は死後、医学の発展のためにと、自らの体を捧げた。東大医学部で解剖され、詳細な論文に残されている。
巨人症に侵されると、背骨が湾曲することがある。出羽ケ嶽の背骨は、ぐにゃりと曲がったまま、骨と骨とをつなぐ組織や靱帯(じんたい)が骨のように固まる「骨化」という現象を起こし、S字に曲がった一つの骨のように固まっていた。生前の映像をみると、出羽ケ嶽は猫背で、あごを突き出すような姿になっている。
実際に遺骨を見つめたノンフィクション作家の大山真人氏はこう記している。
《脊椎(せきつい)が異常に湾曲している。その脊椎のひとつひとつの骨が分離せず、一本の柱状に癒着し合っている》
また、出羽ケ嶽は40代の若さで亡くなったが、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)にむしばまれ、スカスカだったという。そんな体で土俵を務め、勝っても負けても笑いを誘っていた。
当時、あるアナウンサーは、ラジオ実況で土俵に上がる出羽ケ嶽を決まって、こう伝えた。繰り返し、繰り返し――。
《大男、総身に知恵が回りかね。ただいま、出羽ケ嶽登場》
これが「名調子」と、もてはやされていた。
斎藤茂吉のもう1人の息子である北杜夫は、代表作『楡家の人びと』で大病院一族の赤裸々な姿を描いている。山形出身の出羽ケ嶽は「蔵王山」というしこ名で、随所に登場する。
《蔵王山の滅多(めった)にない見あげるばかりの身長、そのもたもたとした相撲ぶりの人気は抜群》
たしかに、悲しいほどに、いや、「哀(かな)しい」ほどに、その所作は、もたもたとしている。しかし――
《人気だけは衰えなかったが、それは彼を人間として認めたうえでの人気ではなく、屈辱的な見世物(みせもの)としての興味にすぎなかった》
出羽ケ嶽はひととは違う異形の自分を子供のころから恥じていた。北杜夫は、こうも描いている。
《化け物じみている自分の身長を隠そうとして、人前では滅多に立とうとはしなかった》
断りなく自分の写真を撮った見知らぬ人に、抗議したこともあったそうだ。
手元に残る出羽ケ嶽の81年前の映像は、相手を圧倒した初場所の取組から、力なく転がされる夏場所の姿へと続く。
左足を取られるとバランスを崩し、向(むこう)正面にばったりと手をついた。四つんばいから、ゆっくりと立ち上がると、軽く首を振りながら東の二字口(土俵の縁)に戻る。猫背の出羽ケ嶽は微笑しているようにも見えるが、判然としない。小さく礼をし、土俵を下りようとする。
出羽ケ嶽は、相手に負けると照れ笑いのように微笑する癖があったようだ。屈辱を隠すように――。
映像は、ここで終わる。
この5月場所を最後まで務めることなく、出羽ケ嶽は引退した。(抜井規泰)
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