抜井規泰
拡大する巨人力士として人気だった出羽ケ嶽=撮影年不詳
昭和のはじめ、スポーツの人気は東京六大学野球に集中していた。一方の大相撲は、空席だらけ。そこで、相撲協会はこんな企画を打ち出した。
「大衆デー」
1926(大正15)年1月場所から、初日の切符を50銭均一とし、集客に躍起となった。
そんな大正末から昭和の初めに三役を務め、人気が地に落ちた大相撲を「1人で支えた」とも評されたのが出羽ケ嶽だった。国技館の建物を出羽ケ嶽が1人で背負う戯画などが残っている。
しかし、盲腸やひざ、背骨の故障が命とりとなり、番付を落とし始める。小結だった28(昭和3)年5月場所から3場所連続で全休。三役の地位を失った。
大量の力士が相撲協会から脱退して新団体を設立した「春秋園事件」もはさみ、体の衰えとけがが重なり、番付を落とし続けた。
35(昭和10)年1月15日。1月場所の5日目だった。幕内の下位力士となっていた出羽ケ嶽は土州山に敗れ、1勝4敗となった。
このときに、出羽ケ嶽の「義兄弟」である斎藤茂吉が詠んだ、有名な短歌がある。
《番附(ばんづけ)も くだり…
この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。
この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。
この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。
この記事は有料会員記事です。
残り:1965文字/全文:2422文字
【1/25まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら
速報・新着ニュース
あわせて読みたい