「せめて十両まで」 挑んだ出羽ケ嶽、運命の一戦の映像
〈下〉運命の一戦に
出羽海部屋の女中頭だったおとよさんは、当時部屋の新弟子だったのちの作家・小島貞二氏に、こう漏らしている。
《あの人にもね、男の意地があるんですよ。せめて十両まで盛り返してから廃(や)めたいらしいんですよ》
1938(昭和13)年5月場所で三段目まで転落した出羽ケ嶽だったが、その場所を5勝2敗と大きく勝ち越した。
翌39年1月場所。映像で出羽ケ嶽が勝つ最初の取組は、この時、撮影された。前場所の躍進で幕下25枚目となった出羽ケ嶽は、ここでも4勝3敗と勝ち越し、翌5月場所は幕下10枚目まで番付を戻した。
幕下以下は、1場所に7番しか取組がない。当時の幕下10枚目なら、次に6勝1敗なら十両復帰の可能性がある。だが、2敗は許されない。
こうして迎えた、5月場所だった。
出羽ケ嶽は初日に黒星を喫し、早くも追い込まれてしまう。2日目は取組がなく、迎えた3日目。それが、映像の2番目の信濃川戦だ。まさに、運命の一番だった。しかし――。
足を取られて、ばったりと四つんばいになった。関取復帰という出羽ケ嶽の望みが断たれた瞬間である。
黒星の直後、出羽ケ嶽は自分自身に対して冷笑していたのだろうか。口元を緩ませているように見える。
この場所の途中で、引退した。
斎藤茂吉が年寄名跡(親方株)を用意したのだろう。出羽ケ嶽は「田子ノ浦親方」となる。
いま、大相撲の親方といえば、部屋を持たなくても年収は軽く1千万円を超え、それが70歳まで保証される身分だ。しかし、当時は、場所ごとにわずかな給金が出るだけで、生活は困窮していたという。
ちなみに大相撲の「田子ノ浦」という年寄名跡はその後、出羽海一門の親方に代々受け継がれてきたが、数年前、二所ノ関一門の元幕内隆の鶴(鹿児島県出身)が取得した。「元隆の鶴」というより、「稀勢の里の師匠」の方が分かりやすいだろうか。
話がわき道にそれた。
出羽ケ嶽は、犬、猫、小鳥、それに盆栽を愛していた。病的なほど、愛していたという。その姿は、北杜夫の『楡家の人びと』をはじめ、様々な筆者の手で、いくつもの作品に描かれている。それらを描いた人たちは一様に、こう想像している。巨人症に侵された自分の容姿を嫌わず、あざけ笑ったりしない、小さく弱い者たちを愛していたのではないか――。
現役時に寝起きしていた出羽海部屋でも、小鳥を育てていた。ある日、弟弟子が、口うるさい出羽ケ嶽への腹いせに鳥かごごと隅田川に投げ捨てるという「事件」があった。出羽ケ嶽は死んだ小鳥を胸に、号泣したという。
引退した出羽ケ嶽は、あのおとよさんと結ばれる。しかし出羽ケ嶽は、自分はいつか妻に捨てられてしまうのではないかと、びくびくし続けていたそうだ。おとよさんが1人で外出することすら嫌な顔をし、化粧はおろか洗顔も許さなかったという逸話もある。
親方業だけでは食べていけない時代だった。出羽ケ嶽は、江戸川区小岩で花屋や焼き鳥屋を営んでいたという。そんな、1950年6月4日。脳出血に襲われた。
もうろうとする意識の中で、出羽ケ嶽は、妻にこう懇願したという。
「切符を買ってきてくれ。早く巡業に行かないと、またなんか言われるからさ」
現役晩年、出羽海部屋で虐待に近い扱いを受けていた出羽ケ嶽。引退から10年以上たっていたのだが、最期まで土俵が気になっていたのだろうか。数日、病床にあったが、こうささやき、息を引き取った。
「犬と猫、頼むな」
47歳だった。
◇
この原稿は、ここで終えるつもりだった。しかし、ひとつだけ確かめたいことがあった。
《大男、総身に知恵が回りか…