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桜ものがたり2020

 奈良県川西町にはかつて、町営の共同浴場があった。吉田邦子さん(68)の家からは歩いて数分。でも春は、少し遠回りすることにしていた。

 もう咲いたんやろか。夜、家事を急いで終えて家を出る。お風呂の前に向かうのは、集落の境に昔からあるお地蔵さまだ。そこには、祠(ほこら)を守るように枝を広げる桜の木がある。

 24歳で結婚し、兵庫県からこの地に来た。子ども2人が相次いで生まれると、一家は4世代の7人家族になった。家事、子育て、仕事に奔走する日々。1人でお風呂に行く余裕ができたのは、子どもが中学生になった頃だっただろうか。そして、夜の明かりに浮かぶ桜の美しさを知った。

 「私だけの桜や」。そう思ってからは毎年、雨の日も欠かさず足を運んだ。「お地蔵さまは子どもの神さん。願いをきいてくれる」。昔、誰かが言っていた。「平和に、無事に育ちますように」。桜を見上げて、手を合わせた。

 共同浴場は10年前に閉まり、子どもたちは独立して家庭を持った。夜の桜を見る機会はめっきり減ったが、見ると過ぎた年月を思い出す。

 今年も咲いたんやろか。(井手さゆり)