斉藤勝寿
拡大する篠田正浩さん。蔵書が並んだ自宅の書斎で=外山俊樹撮影
巨匠の一言が、名匠を生んだといえようか。
松竹に入社して4年、後に監督として「瀬戸内少年野球団」など数々の話題作を世に送り出した篠田正浩さんは、助監督として様々な現場をこなしていたころだった。小津安二郎監督の現場に突然入れられた。1957年製作の「東京暮色」だ。
小津監督らベテラン監督の作品は、「○○組」と呼ばれる、決まったスタッフで撮影されることが多い。外部の助監督を入れることは珍しかった。「すでに映画興行の状況に危機感を抱いていた会社側が、人気の小津作品の公開を早め、やむなく小津監督に残業をお願いした」
助監督がもう一人必要ということで、篠田さんに白羽の矢が立った。助監督としての能力と体力は撮影所でも評価が高かった。体力でいえば、早大競走部出身。1950年、大学1年の時に箱根駅伝で2区を走った実力は折り紙つきだ。
拡大する箱根駅伝に参加したときの自身を指し示す=外山俊樹撮影
残業につぐ残業で「東京暮色」はついにクランクアップ。ほぼ完成した作品を、関係者で試写する「オールラッシュ」は深夜に行われた。小津監督に残業を強いた松竹の城戸四郎社長もその労をねぎらうため、わざわざ出席した。
篠田さんは「僕はくたくたで、一番隅っこの席で寝るつもりだった」。だが試写開始、というときに小津監督の言葉が突然ふってきた。一番前の席から、振り返ることなくこう言った。
「篠田はお…
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