拡大する写真・図版シベリアの抑留体験を語る吉田欽哉さん=北海道利尻町

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 北海道利尻町の漁師の家の仏壇に、こぶし大の茶色の石が置かれている。石に貼った紙には「日本人墓地石」の文字。昨年、シベリアから持ち帰ったこの石には、吉田欽哉さん(94)が生涯を懸けて果たすと誓った「約束」がある。戦後、シベリアで過酷な労働を強いられ、多くの日本人が命を落とした。遺骨は「帰国」を果たせず、いまも凍土に眠る。抑留とはなんだったのか。

片腕を失い、ぼうぜんと立ち尽くす女の子

 北海道の離島、利尻町の漁師の長男として生まれ、終戦の年の5月、樺太(現サハリン)の上敷香(かみしすか)にある陸軍病院に衛生兵として就いた。8月になってソ連軍が南下し、陸軍病院は南の豊原まで後退。ここで激しい空爆に遭い、民間人の多くが死んだ。片腕を失い、何も語らずぼうぜんと立ち尽くす女の子の姿が、いまも目に焼き付いている。

 北海道の稚内に戻るため、9月に大泊港でソ連の油輸送船に乗った。だが、なかなか稚内に着かない。2日かかって着いたのは樺太西対岸の港町、ソ連のソフガワニだった。

帰国船のはずが捕虜に 甲板で泣き叫ぶ人

 「『ホッカイドウ ダモイ(帰国)』って言われて、最初は日本へ帰れると思った。途中で捕虜になったことに気づき、甲板で泣き叫ぶ者もいた」

 それから4年、シベリア鉄道沿いに沿海州のあちこちのラーゲリ(収容所)を転々とした。ほぼ歩きで、その距離は1600キロに及ぶ。

 港湾の埋め立てや鉄道の補修、冬はマイナス30度を下回る極寒の中での伐採作業もさせられた。遺体の埋め替えもした。重い木棺を穴から引き上げ、日本兵の遺体は日本人墓地へ、ソ連兵の遺体はソ連人墓地へ埋め戻す作業だ。ノルマは1日4体。日本兵だけで30~40体ぐらいあったという。

■帰国のため、自ら小指切り落と…

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