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 時は江戸後期、転入者を「村八分」にして追い出そうと訴えた村人たちに、菰野(こもの)藩(現在の三重県菰野町)が下したのは、逆に重い処罰だった――。小さな藩で起きた訴訟についての古文書を、名古屋市博物館元学芸員の種田祐司さん(67)が読み解いた。「首謀者に下した『追放』は死罪に次いで重い処罰」といい、徒党を組んでのいじめや差別に、厳しい「お上の裁き」が下されたことが読み取れる。

 「諏訪村入作喜七一件綴(つづり)」は、菰野町の旧家・横山家の土蔵で見つかった古文書に含まれていた。1822(文政5)年、菰野藩の目安箱に入れた奉行所あての訴状、被告側が出した弁明書、藩の裁決文書など、訴訟に関する一連の文書が残っていた。種田さんが判読して現代文に直し、解説を加えた。

 訴訟は、当時の諏訪村の「百姓一同」26人の連名で起こされた。近くの村から引っ越してきた喜七を「村の風儀になじまない」と主張し、元の村に戻らせるよう求めている。それがだめなら、村人全員を別の村へ移住させよと、藩に難題を突きつけている。

 喜七は、横山家の9代目久左衛門の息子で、諏訪村に持っていた土地に移住したが、村人と折り合いが悪く村八分にされていた。

 藩の裁決は訴えがあった翌年4…

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