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 認知症の専門医として29年目の春がきました。専門医ですが町中で開業してきたため介護職と接する機会が多い毎日です。「本人の意見と家族の意見が異なる」との悩みは介護職との話し合いでも家族相談の際も課題になります。「先生、本人が嫌だと言いますが家族は望んでいます。介護職としてどちらを優先すればよいのですか」と聞かれたことも数えきれません。認知症は「慢性的にゆっくりと了解が悪くなる」という特徴があります。そんな時、当事者が望まなかったとしても家族からの要望がある場合、私たちはどういった対応をすべきなのでしょうか。

当事者と異なる家族の考え

 74歳の菊池和子さん(仮名)は血管性認知症として10年間、最近ではアルツハイマー型認知症による(脳の海馬という部分)の萎縮も加わって、物事の了解が悪くなってきました。これまで何よりも大好きだった自宅での入浴を「私、今日は面倒だからお風呂はやめておく」と言うようになりました。

 ひとり介護者の息子さんは独身で、普段は会社勤めをしています。菊池さんが希望する時間にいつでも入浴介助する時間的余裕もこころのゆとりもありません。そこで息子さんはデイサービスの担当者にお願いして週3回の入浴をゆだねることにしました。

 ところが、菊池さんはデイサービスで入浴時間になるたび、「私、今日はお風呂やめておきます」と言います。息子さんは困ってデイサービスの職員に「もっと入浴させてほしい」と要望します。

拡大する写真・図版イラスト・ふくいのりこ

 しかし、介護保険は当事者の納得が大前提、デイサービスの職員も申し訳なさそうに「息子さんの気持ちもわかりますが、ご本人が『いや』と言っているから無理には……」と答えるほかありませんでした。ある日、ケアマネジャーと介護職が私のところにやってきて言うのでした。「先生、本人が嫌だと言っているのに、息子さんは入浴を希望します。どちらの意見に沿うのが正しいのでしょうか」。介護職の苦悩は尽きませんでした。

左肩をタオルで何度も

 私も「またこの課題か」と思いつつ、返事に困っていたとき、答えは数日後に返ってきました。その日が祝日だったこともあり、遠方に住む娘さんが菊池さんの様子を見にきました。そっと見ていると入浴中の菊池さんは右手に持ったタオルで左肩を何度もくり返し洗うだけで、他には何一つ「体を洗うこと」ができていませんでした。息子さんの介護では菊池さんの入浴中、常に見ていられなくてわからなかったのですが、菊池さんの「入浴できる」との主張とは異なり、実際は何一つ適切な行動ができていませんでした。

 きょうだいはそこで菊池さんの事態をしっかりと把握したようです。報告を聞いた私も菊池さんの入浴には誰かがついていることが大切なのだとわかり、たとえ本人が拒否しても入浴をすすめることが必要だと判断できました。

本当のパーソン・センタード・ケア

 このエピソードの反省点は一方の意見だけを聞いていては事態がわからなくなることです。そして得られたことは「本人か家族か」と対立軸で物事を考えることを、一度やめてみることの大切さです。菊池さんの場合には娘さんが見つけてくれましたが、専門職でも各自が自分の立ち位置から一歩下がり、少し遠くからその当事者の能力・判断力を見ることで、それまで一面しか見ていなかったことを改めて把握できるようになります。地域包括ケアでの多職種連携や家族の意見を聞くことの大切さがわかりました。

 ケアの世界では当たり前となった考え方に「パーソン・センタード・ケア」があります。ケアを受けている当事者が何を望むかを大切に考え、決してケアする側の一方的な意見が勝手に決めることがないよう、当事者の人権や気持ちを大切にする、とても大切な考え方です。しかし一方で認知症という病気のために、当事者が目の前に起きていることの判断や正確な状況への決定ができていないとすれば、その時の「意見」は本当にその人の気持ちや考え方、生き方を反映したものとは言えません。

意見の違いを恐れずに

 医師は経験や知識から自分の医療的な判断をします。看護師は看護の視点から同様に、介護職は日々のケアを通してその人の生活を見るプロの視点から、意見を言います。大切なのはそれらの意見の中で最大公約数として、意見を決めるときに家族の意見も参考にしながら、決定すること。その際に意見の違いがあることを恐れずにチームとして意見を求めることが大切です。

 菊池さんの場合には娘さんが実際の入浴シーンを見ることで家族内の理解がすすみ、必要なケアの「あり方」を見いだすことができましたが、介護職が普段の様子から地域包括支援センターとともに医療・看護と連携することが大切です。決して誰か一人の意見ではなく「かかわる人々」の意見の総意が反映された判断こそ、その人を代弁する本当のパーソン・センタード・ケアなのですね。

     ◇

 次回は「ああ言えばこう言い、こういえばああ言うひと」について書きます。

松本一生

松本一生(まつもと・いっしょう) 精神科医

松本診療所(ものわすれクリニック)院長、大阪市立大大学院客員教授。1956年大阪市生まれ。83年大阪歯科大卒。90年関西医科大卒。専門は老年精神医学、家族や支援職の心のケア。大阪市でカウンセリング中心の認知症診療にあたる。著書に「認知症ケアのストレス対処法」(中央法規出版)など