障害ある息子は殴られ死んだ それでも自立を夢見る母

有料記事

天野彩 伊沢健司
[PR]

 重い重複障害のある35歳の男性が昨年7月、自宅で介護職員に殴られ亡くなった。母親とともに「障害者の自立」を夢見て念願の一人暮らしを始めた矢先だった。母親は、この職員を雇った介護事業所の代表者でもあった。「被害者の遺族」「加害者の雇用主」――。そんな二つの立場を背負わされた母親は「息子は、天使のようでした」と話す。息子と歩んできた35年間を振り返りつつ、いま思うことを記者に伝えてくれた。

一人暮らし 障害者には無理ですか?

 朝、帰宅後、就寝前の毎日3回、札幌市東区の山下妙子さん(64)は、仏壇に手を合わせてつぶやく。「シゲ、おはよう」「きょうも一日がんばったね。えらかったね」。生前にかけていたのと同じ言葉だ。遺影の長男、茂樹さんがくしゃっと笑っている。

 シゲがいなくなってから9カ月たち、あらためて思う。家族が障害者を一生世話するのが当たり前だという風潮はないだろうか。それが本当に障害者本人のためと言えるのだろうか。障害があっても、一人でも多くの人に本人らしく生きてほしい。それがシゲが与えてくれた夢だから。

 シゲの生きた証しを残し、事件を風化させたくない一心で今年1月から複数回、取材に応じた。

シゲから喜怒哀楽が消えた日

 シゲが生まれたのは1983年11月。生後3日で心臓に雑音が聞こえた。心臓病だった。運動の発達の遅れもあり、1歳になるころに取得した身体障害者手帳には「精神運動発達遅滞」と書かれた。のちに知的障害もあるとわかった。医師から「ふつうの子になるための訓練」を受けることを勧められた。当時、障害は幼少期に治療して「治すもの」だった。「早期療育」「正常化」のかけ声のもと、国が療育指導を勧め、子どもと家族が家庭で「訓練」をさせられていた。

 妙子さんと夫も、医師から「歩けるようになれば知的障害も治り、正常になる」と言われた。シゲはおしりで移動することはできたが、車いす生活だった。1~2カ月に1度、作業療法士から指導を受け、毎日1時間以上、シゲの足首をストレッチし、バランスボールの上でうつぶせにさせて揺らした。

 しかし、敏感だったシゲは体を触られるのを嫌がった。妙子さんが「がんばらなきゃ」と必死になるほど、うまくいかなかった。他の子と比べてしまい、落ち込んだ。「お母さん、がんばっていないね」。シゲが4歳になるころ、病院のスタッフから放たれた言葉が胸に刺さっている。「訓練」することが、だんだんつらくなった。

 シゲは、妙子さん、父親、2歳下の弟との4人暮らしだった。知能は1歳程度と言われた。家の中ではおしりを床につけて動かして移動した。カレーライスが大好きで、夕食に出た翌日には誰よりも早く起きて台所に座り込み、皿が出てくるのを待った。ルーの空き箱がお気に入りで、手に持って振っていた。

 せっかちで気性が激しい。笑うときも怒るときも、全力で気持ちを表現した。言葉は話せなかったが「あー」「うー」といった声を出して意思を示した。

 夜中に眠れなかったり、ふだんと違う番組がテレビに流れたりすると、大きな声でうなり椅子を倒した。気に入らないことがあると、足を使ってベッドからずり落ちかけたり、手から血がにじむほどベッドの柵を強くたたいたりすることもあった。「そんなに機嫌悪くしていちゃだめでしょ」と叱られると、妙子さんの顔や腕をつねった。再び叱られると今度は自分のほおをつねった。

 そんな感情豊かなシゲから、喜怒哀楽が消えたことがあった。高校生のころ、妙子さんが持病で入院したため、1カ月ほど入所施設で暮らした。帰宅すると表情がなくなっていた。妙子さんは「嫌なんだろうな。もう入所施設には入れられないな」と思った。

 重い障害のある人は一生を家族に介助されて過ごすか、大規模な入所施設に入るか、二択の人生を送るのが一般的だった。自宅で受けられる介助は限られ、事業所に通うにしても週に数日しか開いていないところばかり。複数の事業所を渡り歩き、多数のヘルパーの介助を少しずつ受けなければならなかった。

 シゲには自閉症の傾向があった。こだわりが強く、落ち着かないと手当たり次第に近くのものを投げ飛ばした。もしシゲの障害がもっと重くなり、終日介助が必要な状態になったら……。考えずにはいられなかった。

21歳の巣立ち 兄弟みたいな共同生活

 シゲの将来にもやもやした不安を抱えるなか、妙子さんに転機が訪れた。2004年、シゲが21歳のころだった。

 障害児の親の相談員をしてい…

この記事は有料記事です。残り5062文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【10/25まで】すべての有料記事が読み放題!秋トクキャンペーン実施中!詳しくはこちら