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 往年の名ランナーで、1953年のボストン・マラソンで優勝した山田敬蔵(やまだ・けいぞう)さんが2日夜、老衰のため川崎市内で死去した。92歳だった。妻の冨士子さんが明らかにした。葬儀・告別式は8日に近親者で行った。

 秋田県出身。日本の「マラソンの父」と呼ばれた金栗四三さんに見いだされ、トップ選手になった。日本の戦後初参加となった52年ヘルシンキ五輪のマラソンで26位。翌年、当時は五輪に次ぐ権威のあったボストン・マラソンで当時世界最高記録とされた2時間18分51秒(のちに距離不足と判明)で優勝。157センチと小柄ながら、力強い走りは「小型機関車」と評され、その活躍は映画「心臓破りの丘」にもなった。56年には朝日国際(現・福岡国際)マラソンでも優勝した。

 第一線を退いた後も、市民レースに参加し、競技普及に貢献。80歳を過ぎても走ることを日課としていた。

「木の葉のように飛んできた」

 2日に92歳で亡くなった山田敬蔵さんの走りには、いつもこの言葉があった。「体が小さくても努力で世界一になれる。手本になるよう、走り続けなさい」。師で「日本マラソンの父」と呼ばれた金栗四三さんからの教えだった。

 現役時代は、猛練習に耐え、157センチ、44キロの小柄な体で海外の大男と互角に渡り合った。ハイライトは1953年ボストンでの優勝。「木の葉のように飛んできた」と評される鮮やかな勝利だった。この活躍は、戦後に復興しているさなかの日本国民に勇気を与えた。

 誠実で実直。そんな人柄が体現…

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