100人超のコロナ感染者ら収容 院内感染どう防いだ?
新型コロナウイルスの感染が拡大する中、政府は重症者の病床を優先的に確保するため、軽症者や無症状者をホテルなどに収容する方針を示している。受け入れる自治体や施設から問い合わせが相次いでいるのが、愛知県岡崎市の藤田医科大岡崎医療センターだ。開院前の2~3月に大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の感染者ら計128人を受け入れ、医療スタッフの感染をゼロに食い止めた。当時の経緯と、感染を防ぐためにどのような対策をしたのか、責任者や現場スタッフに聞いた。
2月16日昼、岡崎医療センターの準備室長だった守瀬善一医師(57)の携帯に電話が入った。相手は、センターを運営する藤田学園(愛知県豊明市)の理事長。国から、ウイルス陽性だったが症状が出ていない乗客乗員の受け入れを要請されたという連絡だった。電話で話すうちに「受け入れざるをえない」という雰囲気になったことを、守瀬さんは覚えている。
開院を1カ月半後に控え、大きな医療機器の搬入は終えていたが、生活のためのカーテンや布団、厨房(ちゅうぼう)、水道がまだ整っていなかった。受け入れ人数は最大で170人を超える見通しだった。
「正直、自分たちにできるのか」と戸惑った。
4月1日の開院が遅れることを覚悟し、まず藤田医大の感染症科、救急総合内科、呼吸器内科の医師らを中心にした対策チームを結成。感染者と非感染者を接触させない「ゾーニング」と、入所者の生活必需品の確保を検討した。翌2月17日の朝、想定される問題点をまとめて大学幹部の会議に伝え、協議の結果、受け入れが決まった。
緊張の中で連泊
滞在者対応の責任者を任された小島菜保子看護師(52)は18日昼ごろから、感染管理認定看護師ら7人で待機した。自衛隊車両の先導で第1陣の乗客が大型バスで到着したのは、日付が変わった19日午前2時過ぎ。最初に降りてきたのは感染者に同行してきた陰性の乗客。疲れた様子の人もいれば、安堵(あんど)の表情を浮かべる人もいた。ブルーシートを敷いた1階フロアで、医師と看護師がペアになり、体温や血中の酸素飽和度を調べた。
続いて陽性の乗客がバスから降りてきた。電子カルテがまだないため、一人ひとりに番号を割り当てた。別の看護師らが乗客2~3人ごとにエレベーターで部屋まで誘導した。全員の収容に4時間近くかかり、終わったのは明け方ごろ。小島さんは徹夜をして翌日も勤務したが、緊張で眠気は全く感じなかったという。
呼吸器内科の林正道医師(48)は、受け入れ2日目の2月20日からメディカルチェックに加わった。「自分は接触機会が多い。感染しても仕方がない」と腹をくくったが、「周囲や家族、地域にはばらまきたくなかった」と、約3週間にわたってセンターに泊まり込んだ。入所者と同じ弁当を食べ、医療スタッフや消防職員らが寝泊まりするフロアで過ごした。
林さんの任務は、患者からPCR検査の検体を採取することだった。その数は延べ280件。検体を採る時、入所者に最も接近する。「『もし防護が破綻(はたん)していたら』とプレッシャーがあった」と振り返る。検体の採取がスムーズにいっても、検体は毎回約1時間かけて中部空港の検疫所に運ぶ必要があり、結果が出るのは夜だった。
防護服脱ぐときは発声
岡崎医療センターは感染者と非感染者を収容する階を分け、陽性の乗員乗客を5~6階、陰性の同行者を4階にした。看護師らはどちらのフロアにも行き来するため、特に防護服の着脱に神経を使った。
各階のエレベーターホールに着脱所を設け、手袋、ガウン、帽子、ゴーグル、N95マスクの順番で脱ぐように2人以上が互いに声をかけあった。脱ぐ時には外側に触れないようにし、一つ外すごとに手指を消毒した。看護師の小島さんは「1人で脱ぐしかない時も、『次外します』『次消毒します』と声に出しました」。使用した防具は、毎回処分した。
ゾーニングを徹底するため、2回の検査で陰性が確認された滞在者が退所する際は、院内放送を流して医療スタッフを動線から遠ざけた。
院内のすべての関係者の行動経路を制限して動きを把握しやすくするため、階段は使えなくし、使用できるエレベーターは居住フロアを行き来するスタッフ用と、それ以外の計2カ所に限定。乗員乗客がいるフロアの入り口の前に机を置いてさえぎり、入れるスタッフを最小限にした。乗員乗客がフロア外に出るためにはスタッフ専用のカードキーが必要で、原則として出られなかった。
陰性の滞在者の多くは、「家族と一緒にいたい」というパートナーだった。しかし陽性と陰性でフロアを分けているため、会うことはできず、スマートフォンなどでやり取りをするだけだった。陽性の人が過ごす5~6階は各階のみフロア内での行き来が自由で、1往復157メートルの廊下をウォーキングしたり、スタッフステーションの前で滞在者同士が会話をしたりして気分転換ができたという。
一方、陰性の人が過ごす4階は、陽性に変わる可能性があるため、滞在者は部屋から出られなかった。「手紙を書いたりテレビを見たりして過ごしていたが、ストレスは大きかったと思う」と小島さんは振り返る。
小島さんは看護師としてのジレンマがあったという。「本当は近くで寄り添って話したかった」が、入所者に近づくと二次感染のリスクがあり自分を守れない。それでも、食事や郵便物を届けに部屋に入る時、立ち止まって会話したことがあった。ある入所者が「退所しても、孫に迷惑をかけたくないから、ホテルに滞在する」と話していたことが印象に残っている。
3月9日、乗客乗員が全員退所した。受け入れ期間中も17人が肺炎を発症した疑いなどで医療機関に搬送されたが、重症者はいなかった。また、地元の企業や学校の児童らから多くの支援物資や寄せ書きが贈られた。小島さんは「地域との絆も生まれたと思う。この経験はセンターの財産として忘れず、これからも患者と向き合っていきたい」と話す。
医師の守瀬さんは「ホテルのような仕事や、大使館など対外との対応といった医療行為とはちょっと外れた仕事を含みながら、誰もしなかった経験として共有財産になった。今後はどうやって受け入れたか、どんな課題があったかも含め、他の医療機関や施設と共有していきたい」と語った。(小川崇)
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