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 春夏の甲子園で計3度の優勝を誇る高校野球の強豪・智弁和歌山。選手時代には主将として甲子園の土を踏み、指導者としても母校を支えてきた古宮克人さん(31)がこの春、退職した。独立して挑むのは教育事業、講演、そして歌手――。「新たな挑戦」に踏み切る決断の裏に何があったのか、尋ねてみた。

 強力打線、仁王立ちの監督、「魔曲」と呼ばれる「ジョックロック」――。智弁和歌山の代名詞は、たくさんある。ここ数年、それらに負けないくらい気になっていたのは、ベンチから聞こえる「甲高い声」だった。

 声の主は、責任教師としてベンチ入りしていた古宮さんだ。声量は野球への情熱と比例しているように感じた。

拡大する写真・図版ベンチから声を出す古宮克人部長(右)=2018年

 古宮さんは、2006年夏の第88回全国選手権大会で4強入りしたときの主将。智弁和歌山が13―12で勝利した準々決勝の帝京(東東京)戦を覚えている人も少なくないだろう。終盤に二転三転した壮絶な打撃戦で1番打者として貢献した。進学した立命大でも主将を務め、卒業後に教諭として母校へ。甲子園春夏通算歴代1位の68勝を記録した高嶋仁前監督を支えながら、熱い指導で後輩たちを育ててきた。

拡大する写真・図版第88回全国選手権大会1回戦、県岐阜商戦で安打を放つ智弁和歌山の古宮克人選手=2006年8月、阪神甲子園球場

 まさに「野球エリート」といえる経歴。全国屈指の強豪校の指導者という立場もあったのに、なぜ、そのレールから離れたのか。聞いてみると、意外な答えが返ってきた。

 「野球なしでも生きていける人間になることが、僕の信念だったので」

 高校に入学した直後、野球に専念しようとして勉強量が落ちた。最初のテストで成績が落ち、当時の野球部長だった林守さんから言われた。「おまえから野球をとったら何が残るんだ」。それ以来、勉強への姿勢も部活動以外の生活も引き締め直した。「あの言葉がなかったら、高校でも大学でも主将を任されていなかったと思います」。9年間の教員生活では、野球部員以外の生徒にも積極的に関わってきた。

 「母校に恩返しができたら、新しい挑戦をしようと決めていました」と古宮さんは言う。野球部長として臨んだ2018年の第90回選抜大会で準優勝を果たした。その夏の第100回全国選手権大会を最後に恩師の高嶋前監督が勇退。これを機に、意を決した。

 とは言え、野球から完全に離れるわけではない。今後は、自分を育ててくれた野球界に恩返ししたいと思っている。頭の中で三つの活動を描く。学力ではなく、個性や人生の目標を重視する教育事業と、少年野球チームなどへの講演活動。そして、歌手としての活動。教える、伝える、歌う。野球を通じて鍛えた「声」が生命線になるものばかりだ。

 「もともと歌うことは好きでした」と明かすが、歌に関しては素人。なぜ、歌手をめざすのか。「子どもたちに、新しいことにチャレンジすることを教えるためには、自分自身が行動で示さないと」。根本に教育者としての考えがある。

 3月21日、高嶋前監督に会い、挑戦について報告した。決断の背景や今後の方針も伝えた。「野球以外のことは難しくて、よう分からんが、決めたなら頑張ってみろ」と背中を押された。

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、思っていた以上に難しい船出となった。いまは、これまでの経験を文章にしたり、ボイストレーニングに励んだりして己を磨いている。「どれぐらい世の中に必要とされるかは未知数。でも、走り続けたいです」(小俣勇貴

拡大する写真・図版小学生に講演をする古宮克人さん=提供