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 新型コロナウイルスの猛威が、元外交官で外交評論家の岡本行夫さんの命を奪った。情熱とバランス力をもって、歴代政権の外交・安全保障に助言してきた。突然の死を悼む声は、政界からだけでなく、沖縄や米国からも届いた。

 「私より若いのに……」。小泉純一郎元首相は8日に文書でコメントした。「当時のブッシュ米大統領はじめ各国首脳との会談に際し、常に的確な助言を与えてくれた。私にとって貴重な外交補佐官だった」としのんだ。

 菅義偉官房長官は8日の会見で「突然の訃報(ふほう)に大変驚いている。これまでのご功績に深い敬意を表する」と悼んだ。茂木敏充外相も会見で、2003年にイラクで日本人外交官2人が殺害された時に「岡本さんが男泣きしていたのを今でも鮮明に覚えている」と振り返った。

 小池百合子東京都知事はツイッターで「世界を俯瞰(ふかん)し、国際政治や貿易紛争など、的確な分析を大和魂あふれる外交官から賜りました」と述べた。

 岡本さんは外務省で北米1課長などを歴任。冷戦時代の80年代から、自衛隊が積極的に国際貢献を果たし、日米同盟をより強化させるという考えを訴えた。岡本さんの死を惜しむ声は米国からも届いた。

 米国家安全保障会議(NSC)のマイケル・グリーン元アジア上級部長と、カート・キャンベル元国務次官補は連名の追悼文で「岡本さんは長年にわたり、良いときも悪いときも、日米同盟のかじを取ってきた」とたたえた。

 追悼文では、親友だったリチャード・アーミテージ元米国務副長官による「岡本さんは日米関係の巨人だった。日本のためにベストを尽くす外交官だった」との言葉を紹介。その上で両氏は「岡本さんの遺産は明らかで、1980年代、日米同盟を強化しようとした。一握りの官僚や政治家しか賛同していなかったが、現在は日本の外務省や国会、政府の多くが支持している。我々の同盟が岡本さんのような人々によって築かれたという事実を忘れてはならない」と悼んだ。

 岡本さんは沖縄の基地問題にも関わった。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還で米政府と合意した直後の96年、橋本政権で沖縄担当の首相補佐官になった。当時、首相秘書官として一緒に働いた江田憲司衆院議員は「岡本さんは地元の住民と、時には場末のバーまで行って酒を酌み交わし、地をはい回るような、血の通った対話を重ねて信頼を得た」と振り返る。

 当時、金武(きん)町長だった吉田勝広・元県政参与は米軍キャンプ・ハンセンや嘉手納基地を一緒にめぐり、米軍関係の事件について説明したことを覚えている。「沖縄に寄り添い、沖縄のことを知ろうとする稀有(けう)な官僚だった。あんな人はもういない」と惜しんだ。

 江田氏は、岡本さんの努力によって97年12月、比嘉鉄也名護市長(当時)が首相官邸で橋本龍太郎首相と会談し、同市辺野古への移設受け入れを表明することにつながったと指摘する。

 しかし、橋本政権と交渉を重ねた故大田昌秀知事県政の副知事だった吉元政矩(まさのり)氏は「結果として、今に至る移設問題の混乱と停滞を招いてしまった」と話す。岡本さんは名護市移設について市長らの説得にあたったが、吉元氏は「政府側の代表としては成果を残したと思うが、県民の理解は得られていない。正面から侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をして欲しかった」と振り返った。

 日本がアジアを侵略したという歴史を真正面から受け止めた。岡本さんと外務省の同期で、欧亜局長などを歴任した東郷和彦氏(75)は「戦争中に中国や韓国にやり過ぎたという思いを持ち、戦争の痛みを知る人物だった。米国やアジアとの間でバランス感覚のある人が外交の世界から失われた」と語った。

 4月13日に岡本さんにメールを送った。悪化する日韓関係の改善を考える有識者の集まりを持とうとしていたからだった。いつまで経っても返事がないと思っていた時に悲報を知ったという。「気持ちの通じ合った同志でした」と悔やむ。

 岡本さんは15年に、安倍晋三首相の戦後70年談話(安倍談話)を検討する有識者会議「21世紀構想懇談会」に加わった。同じメンバーの北岡伸一・国際協力機構(JICA)理事長は、朝日新聞の取材に「簡単な右とか左といった(思想の)色分けはできない共通の立場に立つ、貴重な仲間だった。安全保障問題ではリアリズムに、歴史問題ではリベラルという立場で、日本の外交のさまざまな面で歩んでこられた」と評した。

 後進の教育にも力を注いでいたという。その一人が小泉進次郎環境相だ。8日の記者会見で「大変薫陶を受けた。議員仲間で勉強会をやっていて、講師としてきていただいた」と話す。

 自民党の長島昭久衆院議員も議員になりたての時代によく飲みに連れて行ってもらった。岡本さんは店では「漁師」と名乗っていたという。「外交・安保の論客にとどまらない、ちゃめっ気たっぷりの人柄だった」としのんだ。

 一方、海が好きだった岡本さんは、東日本大震災後には漁業支援に尽力した。

 三菱商事や日本郵船など大手企業に出資を募り、「希望の烽火(のろし)」という基金を設立。津波で壊滅的被害を受けた東北地方の漁港に、水揚げした魚を保存する冷凍コンテナなどを提供するプロジェクトを展開した。岡本さんは当時の取材に「本格復興までのギャップを、民間のスピードで埋めたい」と話していた。(太田成美、藤原慎一)