コロナ禍で沖縄への旅行自粛が呼びかけられるなか、「大好きな沖縄のために今は我慢」「沖縄旅行はキャンセル」といった投稿がSNS上にあふれている。いつからこんなにも愛される沖縄になったのだろうか。テレワーク中の記者がふと思い立って調べてみると、緑あふれる街並みにも、ヤシの木で知られる国際通りにも、本土復帰前、全く違う景色が広がっていた。南国リゾート沖縄。その知られざる誕生秘史をたどってみたい。
ヤナギとワンピース
5月の大型連休中、沖縄も全島で「休業中」だった。真っ白な砂浜も、美ら海水族館も、首里城も。観光バスが列をなし、親子連れやカップルでにぎわうはずのどこもかしこも、人の姿は皆無に等しかった。
沖縄観光の玄関口、那覇市の国際通りも例外ではなかった。土産品店や料理屋はのきなみシャッターを下ろし、交差点では、マスク姿のシーサーが静かに通りを見守っていた。
風に揺れるヤシの木を眺めながら、記者が思い浮かべていたのは、テレワーク中にネットで見つけたブログの記述だった。
国際通りにはかつてヤナギが並んでいた――。ヤシの木が植えられたのは2006年になってからに過ぎないというのだ。詳しく調べてみると、1956年6月18日の那覇市の広報紙「市民の友」に発見した。
「夏!!やなぎ通り」。そんな見出しに続いて「道行く人達の肩をなでてくれる柳は如何(いか)にもすがすがしい」とあった。添えられた写真には、風にそよぐヤナギと、ワンピース姿で歩く女性の姿が写っている。車は右車線、ときは米軍統治下。太平洋戦争の地上戦からわずか11年しか経っていないころの沖縄だった。
「那覇へゆく 銀座の柳」
国際通りにヤナギが登場したのは、那覇市歴史博物館によると、1950年代。当時の朝日新聞にはさらに意外な記事が掲載されていた。
1959年3月9日夕刊は〈那覇へゆく 銀座の柳〉との見出しで、ヤナギの苗木100本が那覇市に贈られると伝えている。「東京の銀座通りのように、那覇市の国際通りに柳を植えたい」(那覇市長)という思いに応え、銀座の商店街が寄贈したという。
時期は前後してしまうが、同じころの地元紙にこんな見出しも躍る。
〈モダンですっきりした感じ〉〈東京名物のヤナギも、いまでは那覇の国際色をかざるようになった〉(1958年7月14日、沖縄タイムス夕刊)
風景は「はげ山ばかり」
沖縄で林学を専門としてきた元琉球大学教授の安里練雄(いさお)さん(75)は「当時の沖縄は本土復帰前。東京・銀座のヤナギは『植えてうれしい銀座の柳』というフレーズの歌謡曲でも全国的に知られていて、憧れの対象として受け入れられたのではないでしょうか」と解説する。
安里さんの話はそれだけにとどまらなかった。
ヤナギの資金はどこから?「沖縄でも知る人は少なくなりました」。復帰前、盛り上がった「緑化運動」の事実を深掘りします。
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