拡大する写真・図版本土復帰から48年を迎えた沖縄。ヤシの木が並ぶ国際通りの入り口に立つシーサーも、しっかりとマスクをつけていた=2020年5月15日午後3時59分、那覇市、木村司撮影

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 コロナ禍で沖縄への旅行自粛が呼びかけられるなか、「大好きな沖縄のために今は我慢」「沖縄旅行はキャンセル」といった投稿がSNS上にあふれている。いつからこんなにも愛される沖縄になったのだろうか。テレワーク中の記者がふと思い立って調べてみると、緑あふれる街並みにも、ヤシの木で知られる国際通りにも、本土復帰前、全く違う景色が広がっていた。南国リゾート沖縄。その知られざる誕生秘史をたどってみたい。

ヤナギとワンピース

 5月の大型連休中、沖縄も全島で「休業中」だった。真っ白な砂浜も、美ら海水族館も、首里城も。観光バスが列をなし、親子連れやカップルでにぎわうはずのどこもかしこも、人の姿は皆無に等しかった。

拡大する写真・図版沖縄の観光地、国際通りも大半の店舗がシャッターをおろし、人通りもほとんどない=2020年4月29日午後2時40分、那覇市、木村司撮影

 沖縄観光の玄関口、那覇市の国際通りも例外ではなかった。土産品店や料理屋はのきなみシャッターを下ろし、交差点では、マスク姿のシーサーが静かに通りを見守っていた。

 風に揺れるヤシの木を眺めながら、記者が思い浮かべていたのは、テレワーク中にネットで見つけたブログの記述だった。

 国際通りにはかつてヤナギが並んでいた――。ヤシの木が植えられたのは2006年になってからに過ぎないというのだ。詳しく調べてみると、1956年6月18日の那覇市の広報紙「市民の友」に発見した。

拡大する写真・図版1959年3月に那覇市が発行した広報紙「市民の友」で、東京・銀座の柳100本が那覇市へ贈られることを紹介している記事が見つかった

 「夏!!やなぎ通り」。そんな見出しに続いて「道行く人達の肩をなでてくれる柳は如何(いか)にもすがすがしい」とあった。添えられた写真には、風にそよぐヤナギと、ワンピース姿で歩く女性の姿が写っている。車は右車線、ときは米軍統治下。太平洋戦争の地上戦からわずか11年しか経っていないころの沖縄だった。

拡大する写真・図版1956年6月18日付の那覇市発行の広報紙「市民の友」。「夏!!やなぎ通り」の見出しが目をひく

「那覇へゆく 銀座の柳」

 国際通りにヤナギが登場したのは、那覇市歴史博物館によると、1950年代。当時の朝日新聞にはさらに意外な記事が掲載されていた。

 1959年3月9日夕刊は〈那覇へゆく 銀座の柳〉との見出しで、ヤナギの苗木100本が那覇市に贈られると伝えている。「東京の銀座通りのように、那覇市の国際通りに柳を植えたい」(那覇市長)という思いに応え、銀座の商店街が寄贈したという。

拡大する写真・図版1959年3月9日付の朝日新聞夕刊。東京・銀座のヤナギが那覇へ贈られることを紹介している

 時期は前後してしまうが、同じころの地元紙にこんな見出しも躍る。

 〈モダンですっきりした感じ〉〈東京名物のヤナギも、いまでは那覇の国際色をかざるようになった〉(1958年7月14日、沖縄タイムス夕刊)

拡大する写真・図版1958年3月10日に撮影された国際通り。写真説明に「銀座の柳が通りを飾る」とある=金城棟永氏撮影、那覇市歴史博物館提供

風景は「はげ山ばかり」

 沖縄で林学を専門としてきた元琉球大学教授の安里練雄(いさお)さん(75)は「当時の沖縄は本土復帰前。東京・銀座のヤナギは『植えてうれしい銀座の柳』というフレーズの歌謡曲でも全国的に知られていて、憧れの対象として受け入れられたのではないでしょうか」と解説する。

 安里さんの話はそれだけにとどまらなかった。

ヤナギの資金はどこから?「沖縄でも知る人は少なくなりました」。復帰前、盛り上がった「緑化運動」の事実を深掘りします。

 「私は、沖縄に米軍が上陸する直前の1945年1月に生まれました。だから、幼いころの記憶、つまり戦後まもなくの沖縄の風景は『はげ山ばかり』。それから徐々に緑が増えていく様子をよく覚えています。大人になって、あの緑こそ復興の象徴だったんだ、と感じるようになりました」

 戦後復興の象徴とも言える国際通り。その通りの「初代」街路樹として植えられたのがヤナギだった。

全国から苗木

 沖縄を彩る緑は、戦争とも深い関わりがあった。

 「沖縄県緑化運動65年史」(県緑化推進委員会編)によると、地上戦で多くの樹木が焼き払われた沖縄を占領した米軍は1951年、「愛林週間」と称する緑化運動をスタートさせた。行政や住民、地元の新聞社も協力した運動は県外にも共感を広げ、「沖縄のために」と各地から寄付や苗木が届けられた。

拡大する写真・図版秋田県からスギの苗7千本が沖縄に贈られた=1962年3月4日撮影、沖縄県公文書館所蔵

 1959年~69年、本土や外国から沖縄に送られた苗木は27万4千本、種子は約493キロ、寄付金は当時のドル換算で1万8663ドルにのぼった。「老父が貧者の一灯 法事の費用節約して」といった当時の新聞記事も65年史には収められている。

拡大する写真・図版戦跡へ贈られたとみられる苗木。1964年に撮影された=沖縄県公文書館所蔵

 沖縄の緑化運動が全国的に盛り上がった背景について、安里さんはこう言う。

 「沖縄戦では多くの日本兵も戦死しました。そのご遺族や、何よりも生き残って本土に帰りついた人が、大きな傷を負った沖縄のために何かしたいと、心を砕いたのだと思います」

 さらに安里さんは言い添えた。「戦後75年が経ち、復帰前の緑化運動を知る人は沖縄でも少なくなりました。でも今ある緑は、戦後になって県内外の人たちが気持ちを寄せることでできあがったもの。緑の豊かさによって平和が表現されてきたといえるのです」

国際の原点の映画館

 そもそも国際通りの始まりは、戦後の闇市にさかのぼる。米軍に占領され、土地を失った人びとが肩を寄せ合い生活の基盤を築いた場所だ。「国際」の名は、その地に1948年に建てられた映画館「アーニーパイル国際劇場」に由来する。

拡大する写真・図版1950年ごろのアーニーパイル国際劇場。現在の那覇市の国際通り沿い=那覇市歴史博物館提供

 アーニー・パイルは、沖縄戦で死亡した米軍の従軍記者の名前。「沖縄・国際通り物語」(大浜聡著)によると、アーニー・パイルはアメリカ兵たちに圧倒的に人気があり、「アメリカ側の受けもいいに違いない」と、劇場の支配人が使うことにしたという。

拡大する写真・図版1945年4月2日、沖縄県で撮影された米軍の従軍記者、アーニー・パイル氏(沖縄県公文書館所蔵)

 その劇場を拠点に、通りには商店や飲食店などが立ち並び、発展。1950年代、通りは約1・6キロの距離にちなんで「奇跡の1マイル」とも、「国際通り」とも呼ばれるようになった。

 国内の一大観光地として不動の地位を確立してきた沖縄。2018年度には初めて観光客数1千万人を突破し、観光収入は過去最高の7340億円を記録。ハワイと肩を並べるまでに成長してきた。一方、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、19年度の観光客は前年度より約53万5千人少ない946万9200人。落ち込み幅は、本土復帰の1972年以降、2番目の大きさだった。沖縄観光はこれからどこへ向かうのか。5月15日で沖縄の日本本土復帰から48年。いまはその原点を見つめ直す機会なのかもしれない。(国吉美香)