甲子園への「正解」、君たちの言葉で 早見和真さん寄稿

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 戦後初めてとなる全国高校野球選手権大会の中止が決まった。「夏の甲子園」という大舞台を失った球児たちに、かける言葉はあるのか。自身も高校球児として白球を追い続けた、小説家の早見和真さんに寄稿してもらった。

 はやみ・かずまさ 1977年生まれ。高校球児を描いた『ひゃくはち』、『イノセント・デイズ』(日本推理作家協会賞)など。

 高校まで僕も野球をやっていた。神奈川県の桐蔭学園という学校で、最上級生時の秋には県大会、関東大会と優勝し、春のセンバツ甲子園の出場をほぼ確定させていた。

 たった十六人のベンチ入り枠を目指して、冬の間は必死に練習に励んだ。そして、そろそろセンバツ内定の一報が届こうかというときだった。一九九五年一月十七日。甲子園球場のある阪神エリア一帯を、M7・3の大地震が襲った。

 テレビから流れてくる被災地の映像に胸を締めつけられはしたものの、正直、寮生活で、野球づけの毎日を過ごしていた僕らにはどこか他人事だった。

 しかし、僕たちは突然その渦中に放り込まれた。震災の一週間後くらいから、どこからともなく「今年の春は甲子園が中止になる」といったウワサが舞い込んできたからだ。

 本音を言えば、是が非でも開催して欲しかった。東京ドームや倉敷マスカットスタジアムでの代替開催といったウワサも聞こえてきたが、そのときになってはじめて僕は自分が「高校野球の全国大会」を目指していたわけじゃないのだと知った。幼い頃から苦しい練習に耐えてきたのは、ひとえに「甲子園」のためだったと知ったのだ。

 結局、その年のセンバツは甲子園で開催された。高校野球につきものの吹奏楽部の応援は禁止されたし、いまでも夢に見るほど憧れたベンチ入りも叶(かな)わなかったが、それでも大会は甲子園で開催され、補欠の僕にも多くの景色を見せてくれた。

 だから、球児の甲子園に憧れる気持ちには寄り添えたとしても、それを奪われた人間の思いは代弁できない。指導者も、記者も、教師も、保護者も経験したことがなく、誰も答えめいたものさえ導き出せない出来事にいまの高校三年生は直面しているのだ。その気持ちを正しく推し量れる大人はいない。

 つい先日、僕の住む愛媛県松山市済美高校の中矢太監督と話をさせていただいた。甲子園の頂点を目指そうという強豪チームの監督でさえ、選手たちにかけるべき言葉を懸命に模索しているようだった。

 十八年間の憧れを奪われようとしている子どもたちにかけるべき言葉だ。しかも、選手それぞれで立場は違う。夏の活躍を約束されていた選手も、ここで野球に区切りをつけようとしていた選手も、ひょっとしたらこの夏に一躍脚光を浴びたかもしれない選手も、ただ野球が好きで続けてきた選手も……。全員が等しく最後の甲子園に憧れていながら、全員に等しい正解が存在しない。

 選手一人ずつ、その立場や思いによって「この夏の正解」が違うのだ。ならば、自分自身で見つけてほしい。メディアが垂れ流すわかりやすい悲劇の駒としてではなく、たとえ尊敬に値するにしても大人たちの言葉でもなくて、今回だけは、自分の頭で正解をひねり出し、甲子園を失った最後の夏と折り合いをつけてもらいたい。

 きっとこの先、たくさんの人たちが「あの夏の不運な球児」という目で見てくると思う。そのうち、その空気に毒され、自分自身を被害者のように感じることもあるだろう。

 僕自身、十七歳のときは甲子園の開催を内心強く望んでいながら、メディアに向けられたマイクの前では「僕たちは決定に従うだけ」「いまはただ被災地の復興を祈ります」などと殊勝なことを言っていた。社会が醸し出す空気の重さを身をもって知っているが、今回だけはなんとかそれに抗(あらが)ってもらいたい。

 どの大人も経験したことのない三年生の夏を過ごすすべての高校生が、十年後、二十年後の社会の真ん中に立ち、新しい言葉と考えを武器に次々と何かを打ち出しているべきだと思っている。

 強豪も、弱小も関係なく、もちろん野球部だけの話でもない。この年に高校三年生だったことの意味を考えて、考えて、考えて、考えて……。

 そうして考え抜いた末に導き出す、僕たちには想像もできない新しい言葉をいつか聞かせてほしいと願っています。

     ◇

 はやみ・かずまさ 1977年生まれ。横浜市出身。2008年、高校球児を描いた『ひゃくはち』でデビュー。15年『イノセント・デイズ』で日本推理作家協会賞を受賞。ほかに『小説王』『ザ・ロイヤルファミリー』など。

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