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 新型コロナウイルスの影響で、中止となった今夏の全国高校野球選手権大会。前回中止となったのが、戦争のあおりを受けた1941年だった。95歳になった当時の球児は、同じように甲子園への道を閉ざされた後輩に「野球に打ち込んだ日々は、決して無駄にはならない」とエールを送る。

 神奈川県内の名門校で、甲子園の常連だった横浜商業。戦前に野球部員だった斉藤哲男さんは、横浜市内の自宅で大会の中止決定を聞いた。「いまも昔も、甲子園は大きな存在。ユニホームを着て、晴れの姿を家族に見せたかっただろう」。90歳を超えても、はっきりとした口調で球児たちへの思いを語った。

 5歳上の兄が同校野球部で主将として活躍し、斉藤さんも後を追うように進学。3年生(当時は5年制)の夏の神奈川大会から2年続けて優勝したが、当時あった2次予選の南関東大会で敗れ、甲子園には届いていなかった。

 暑い日も寒い日もグラウンドを走り、練習に明け暮れた。最終学年になり、副主将として迎えた41年の夏。神奈川大会が始まるころ、戦時色が強まって交通が制限され、文部省通達で甲子園での選手権大会は中止となった。

 このときのことを、斉藤さんは「よく覚えていない」という。学校の教員も近所の人も、次々と出征する時代だった。「なによりも戦争が優先され、ただ、それを受け入れるしかなかったんだと思う」

 この年、地方大会は開かれ、横浜商業は神奈川大会3連覇を達成。それでも夏の甲子園の土は踏めないまま、引退した。

 卒業後は陸軍で飛行訓練を重ね、戦後の食糧難は進駐軍のキャンプ地の調理場で働いてしのいだ。野球部の厳しい練習を乗り越えた自信が、つらいことも乗り越えさせてくれた。

 戦争が終わる直前の45年夏、優しかった兄は沖縄で戦死した。それから60年後の2005年夏、斉藤さんは当時の球児の代表として、神奈川大会で始球式のマウンドに立つ喜びを味わった。

 そして今年。自分たちと同じように、球児たちは甲子園のグラウンドを踏むことはできなくなった。

 「自分自身ではどうしようもないことで、それぞれの時代の出来事として受け止めるしかない」。そして斉藤さんは続けた。「私がそうだったように、高校時代の経験がきっと、その後の人生で大きな支えになってくれるはずだ。そのことは忘れないでほしい」(井上裕一)