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 カミュの『ペスト』をはじめ、感染症を扱った研究書や小説の売れ行きが伸びている。日本人は、いかにウイルスなどの感染拡大に向き合ってきたのか。歴史研究者の平川新(あらた)・東北大名誉教授に聞いた。

 ――日本で感染症は「疫病」として恐れられてきましたね。

 「人類は太古の昔から、自然災害と感染症の危機に直面し、文明化によって克服しようとしてきました。京都も平安時代は不衛生で、疫病が頻繁に発生し、検非違使(けびいし)が対策に当たりました」

 「欧州ではかつて人のし尿が街中に捨てられ、感染症の拡大につながりましたが、日本では、農村の貴重な肥料として江戸などでし尿が買い取られました。リサイクルにより衛生が保たれた面があります」

 ――近世の東北はどうですか。

 「仙台藩領だった気仙郡(現在は岩手県)の農家に伝わる古文書に、被害が記録されています。1773(安永2)年に『疫病流行 死亡郡中ニ三千余人』とあり、困窮した人々にお金やもみ、ひえなどを与えたことで、郡奉行から褒美として羽織を拝領したと記されています」

 ――なぜこの地域に感染が広がったのですか。

 「『宮城県史』(1962年発行)に別の古文書が載っています。それによると、『上方参詣(さんけい)』に向かったが、東海道・中山道で感染、10人に3人ほどは死亡し、残りは『半死半生』で戻った。その後に広がり、翌年5月までに郡内で1万3473人が感染した、とあります」

 「遠方への移動をきっかけとする大規模な感染は現代と同じ。江戸時代は街道や宿場の整備が進み、人の交流が急激に増えました。全国から伊勢参りに来るので、感染症が全国へと拡大しやすくなりました」

 ――感染者が出た地域はどう対応しましたか。

 「史料によれば、藩は医者を派遣しました。村人は死者が出た親類・近所には出入りせず、ある村では病気見舞いもしなかったので感染拡大を免れた、とあります。患者と接すれば感染するとの認識が民衆にあったのです」

 ――大量の死を目にするのは大変な恐怖ですね。

 「江戸時代までは神仏への祈りが大事でした。1858(安政5)年、将軍家定が亡くなり、歌舞音曲などの停止令が出されました。これに対し、コレラの感染が広がっていた浦賀(神奈川県横須賀市)の民衆は、悪病退散の神楽奉納とみこし巡行を申請し、奉行所は巡行を黙認しました。民衆にとっては将軍への服喪より悪病退散に切迫感を持っていたのです」

 ――幕末にはコレラ騒動が起きます。

 「開国で入港した外国船からもたらされました。従来は藩ごとだった対応は、明治になると政府が統率します。明治10年代には大流行し、政府は予防法心得を出し、『避病院』を開設して感染者の隔離を進めました。府県には衛生課を設けるよう指示するなど、近代的な公衆衛生システムがこの時期に整えられました」

 ――感染症の歴史に関心が集まっています。

 「これまで地震・津波に目を向けてきましたが、感染症も視野に入れていかなければいけません。感染症に社会がどう対応してきたのか、歴史的に考察し、教訓をくみとっていく必要があると考えます」(聞き手・高橋昌宏)