真田幸村、天王山… いざ、関西の歴史ロマンを笑わん⁉
講談師の旭堂南海さん
「勝手に関西遺産」総集編
やはり最初(2006年4月掲載)の「真田伝説の里」は思い出深い。真田とは真田幸村。関ケ原の戦いの後、和歌山県九度山町の真田屋敷に蟄居(ちっきょ)の身の上となる。そこが伝説の里。幸村は徳川と豊臣の戦い(大阪の陣)がまた起こると予測し、密(ひそ)かに屋敷裏に抜け穴を掘り、監視の目を盗んでは大阪へと穴を通って出向いていたと伝わるのだ。今年の流行語で言うなら、ステイホームをしてなかったのだな。
2004年から続く関西遺産は、総集編をお届けしています
「まだまだ勝手に関西遺産」は、2004年11月にスタートした「勝手に関西世界遺産」が前身です。関西は本家のユネスコ認定の世界遺産に収まりきらない、愛すべき身近な「お宝」がいっぱいある――。そんな意気込みで始まりました。登録者は関西ゆかりの識者たち。そのうち6人に当時を振り返って頂きます。第4回は講談師の旭堂南海さんです。
私が抜け穴を訪ねたのは25年近く前と、「勝手に関西世界遺産」で取材した14年前の2度。地元の古老は「そんな話もあるけど、若いモンは興味もないで」という感じだった。抜け穴も民家の脇にひっそりとあり、訪れる人もいなかった。が、大河ドラマに「真田丸」が決まると、全国から抜け穴を訪ねる人がひっきりなしとなったと言うのだ。
真田の抜け穴の話を広めたのは江戸時代の大阪の講談師であると言ってよい。史実では徳川方が圧倒的な力で豊臣を打ち負かし、幸村も討ち死にを遂げるのだが、それでは面白くないと、幸村を主人公に作り替えた。何でも出来るスターにしたのだ。その一つの武器が抜け穴であった。大阪の地下一面に抜け穴を掘り、神出鬼没となった幸村。そしていつしか、九度山とも実は前からつながっていたと話が膨らんだ。
江戸時代の大阪の講談では…