医療現場を支えたい ジャパンウォークが募金応援活動

構成・松本龍三郎 構成・岩佐友
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 新型コロナウイルスと最前線で向き合う医療現場を支えたい――。そんな思いから、朝日新聞社も実行委員会に参加するウォーキングイベント「ジャパンウォーク」は、日本財団の募金活動の応援を始めました。イベントに携わってきたオリンピアンやパラリンピアンにとって、医療従事者は身近で大切な存在。思い思いの感謝とエールを送っています。

 ウォーキングイベント「ジャパンウォーク」は2016年5月、東京2020大会の機運盛り上げと共に、障がいの有無にかかわらず分け隔てのない社会づくりを目指して、東京・豊洲で初めて開催しました。その後、会場を仙台や大阪、横浜、福島へと広げ、昨年秋までに全9回開催しています。ほぼ毎回、20~30人のオリンピアン・パラリンピアンが参加しています。

 しかし今年の春は、新型コロナウイルス感染症の拡大により、開催を中止しました。

 そんな中、パラスポーツ支援を長年続けている日本財団がいち早く医療現場を支えるための緊急支援対策を打ち出し、寄付を募り始めました。

 「ジャパンウォーク」では障がい者スポーツ体験会を行ってきており、多くのパラリンピアンも参加しています。これまで日本財団の取り組みに示唆を得た面も多く、医療現場への支援に迅速につながることなどから、この募金活動を応援することに決めました。

 これまでジャパンウォークに参加してくれた、あるいは、この春参加するはずだったアスリートの計21人がこの活動に賛同し、メッセージを寄せてくれています。多くの方に、アスリートの思いを知っていただき、一緒に医療現場を支えることができれば、と願っています。(ジャパンウォーク2020実行委員会)

色んな方の支えに気づいた リオパラ銅メダル・芦田創さん

 知り合いには、お医者さんをはじめ医療従事者の方がいます。私自身は現場の状況を直接目にしていないので想像するしかありませんが、自らの感染のリスクもあるなか、日々つらい思いをしながらも精いっぱいやってくださっているんだろうなと思います。

 そうした方々の奮闘がなければ、医療体制が崩壊してしまうことだってあり得るわけです。最前線で戦ってくれていることに、まずは感謝を伝えたいです。

 現役のアスリートも新型コロナウイルスの影響をもろに受けています。私は練習していた陸上競技場が使えません。踏み切って砂場に飛び込む走り幅跳びの動作ができず、感覚が狂うのは避けられません。とはいえ、制限がかかる状況下でいかに工夫をして過ごせるかが大事。アイデア勝負だと感じています。今は人がいない公園や、階段、坂道を使い練習をしています。

 自宅では、昨年末に生まれた長女・柚(ゆず)を昼寝させるのが日課です。愛する娘を抱っこする時間も有効に使います。生後5カ月で7キロある娘を抱えてのスクワットは、尻の筋肉に刺激を入れるのにちょうど良いトレーニングです。

 春の大会が次々と中止に追い込まれ、五輪とパラリンピックも今夏から1年延期になりました。自分を表現する舞台がなくなってしまった今、アスリートの存在意義っていったい何だろう――。おのずと考える時間が増えました。

 改めて感じたのは、いろんな方の支えがあって、競技をすることが出来ていたということです。大会を準備してくれる人がいて、応援してくれる人がいて、見に来てくれる人がいるからこそ、自分たちもパフォーマンスを披露する意味があるのだと。コロナ禍で得た、大事な学びだと思っています。(構成・松本龍三郎)

 あしだ・はじむ 大阪府池田市出身。5歳で右腕にデスモイド腫瘍(しゅよう)を発症し、治療の中で右上肢機能障害に。早大で本格的に競技を始め、2016年リオデジャネイロ・パラリンピック男子400メートルリレーで銅メダル。東京大会は走り幅跳びで金メダルを目指す。トヨタ自動車所属。26歳。

車いすで生きる覚悟くれた パラリンピアン・田口亜希さん

 車いす生活を送る中で、気を使う日々が続いています。外出時はタイヤを触ることも多いため、新型コロナウイルスに接してしまうのでは、と不安になります。車いすをこぐたびに手を洗うようになりました。ニュースを見て過酷な環境で働いている医療従事者の方々のことを考える時間も多くなりました。とても身近な存在だからです。

 25歳の時、突然、体が激痛に襲われ、病院に運ばれました。脊髄(せきずい)の中の血管が破裂する病気で、胸より下の感覚がなくなりました。24時間点滴を受け、起き上がることもできません。床ずれを防ぐため、1、2時間おきに看護師が体の向きを変えてくれました。

 最初は、いつか元のように歩けると思っていました。しかし、3カ月後にリハビリ病院に転院すると、医師から「もう歩けないよ」と言われました。なんてひどいことを言うのかと泣きました。でも今思えば、車いすで生きる覚悟を植え付けてくれたのでしょう。その後、多くの医療従事者が食事や移動など手取り足取り面倒を見てくれました。落ち込んだ時は同年代の方が恋愛話をしたり、食事に誘ったりしてくれて気持ちも楽になりました。

 四つの病院で計1年半の入院生活を送りました。時に優しく、時に厳しい医療現場の方々がいたから社会に戻ることができたのだと思います。リハビリ中に出会った友人の誘いで射撃を始め、パラリンピックに出場することもできました。

 お世話になった医療従事者の方々とはその後も交流が続いています。今は新型コロナの治療にあたるため、最前線で活躍されていることでしょう。私ができるのはその仕事の大切さを発信すること。そして感謝の気持ちを持ちながら、できる支援をしていきたいと思います。(構成・岩佐友)

 たぐち・あき 大阪府生まれ。客船「飛鳥」の乗組員だった25歳の時に脊髄(せきずい)の血管の病気を発症。車いす生活となってから射撃を始める。2004年アテネ、08年北京、12年ロンドン・パラリンピックに出場。東京2020聖火リレー公式アンバサダー。日本郵船勤務。49歳。

医療従事者の頑張りがあるから 日本パラリンピック委員会委員長・河合純一さん

 パラアスリートの中には、病気や事故などで医療機関にお世話になっている人が多くいます。それだけに、新型コロナウイルスと対峙(たいじ)する医療従事者の方々には感謝の気持ちでいっぱいです。困難な状況に使命感を持って立ち向かっておられることでしょう。

 ウイルス感染拡大の影響で、私のような視覚障害者にも困ったことが起きています。そもそも、誰がマスクをしているかも判別がつかない。道に迷えば、通りがかりの人に声をかけて尋ねざるを得ません。

 買い物では、これまでは店員に案内してもらって商品を取ってもらいましたが、「2メートル以内に近づいている」と言われればその通り。ソーシャルディスタンスの重要性が叫ばれるなか、悩ましいところです。

 コロナ禍によって、当たり前と思ってきたことが、決して当たり前でないと気づけたかもしれません。医療従事者の頑張りが重篤化を防ぎ、亡くなる方を減らしました。彼らの支えで、我々は生きている。そう認識するようになりました。

 こんな状況ではありますが、スポーツ活動が再開された暁にはスポーツを通じて元気や笑顔をみなさんに届けたいと思っています。

 かわい・じゅんいち 静岡県浜松市出身。中学3年で視力を失う。5歳で水泳を始め、1992年バルセロナ・パラリンピックから6大会連続出場。金5個を含むメダル計21個を獲得。日本人で初めて国際パラリンピック委員会の殿堂入り。日本パラリンピック委員会委員長。45歳。

応援の方法

寄付は以下のページからできます。

公式HP http://tiny.cc/bokin別ウインドウで開きます

(9月30日までの予定)

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