第2回ブレジネフの熱弁、「全部無視して」 角栄に渡ったメモ

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編集委員・藤田直央 デザイン・田中和
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 今も多くの人の記憶に残る庶民宰相・田中角栄。外交成果としては日中国交正常化が知られるが、ロシアの前身であるソ連とも北方領土問題で息詰まるやりとりを演じていた。1973年秋の訪ソ時の首脳会談の極秘会談録が見つかり、その様子が詳細に判明した。会談録は、73年10月に外務省のソ連担当課がまとめた「田中総理訪ソ会談記録」。当時副総理だった三木武夫(後の首相)が保管していて、没後に出身の明治大学に寄贈されていた。

 会談録からは、日本との領土問題は存在しないと態度を硬化させていたソ連の最高指導者・ブレジネフと向き合った田中が執拗(しつよう)に「四島」交渉を迫った様子が読み取れる。米ソが対立した冷戦期に日ソ両首脳が北方領土問題で激しい交渉を行った、唯一と言っていい本格的な首脳会談。3日間で4回あった「角栄流外交」の詳細を再現するとともに、全8回にわたって角栄訪ソの意味を振り返る。今回は連載2回目で第2回首脳会談を追う。(敬称略)

 ◆第2回首脳会談 1973年10月8日午後7時~午後9時35分 クレムリン宮殿・エカテリーナの間

 昼食会前に開かれた最初の会談と同じ部屋で、今度はソ連共産党書記長ブレジネフが語り始めた。

 第1回会談では、首相・田中角栄が緊張しながら、北方領土問題とは「四島」のことであり、その解決に向けて平和条約締結交渉を進めることを確認したいと述べた。だが、それはこの会談から20年後、ソ連崩壊後のロシアとの首脳間文書でようやく記せた認識だった。ソ連が東西冷戦の一方の盟主であったこの時代、その最高指導者ブレジネフの言葉は、そこからほど遠いものだった。

 「(56年の国交回復時に)…

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