平安時代にも「ステイホーム」 疫病封じのまつりは今も
渡義人
平安時代の都、平安京(京都市)は、その名の通りの平安な場所ではなかった。人と物の集中は、疫病の被害をより甚大にすることにもつながった。頻発する疫病をおさめるため、国が始めたまつりは、やがて民衆主導へと変わり、その願いとともに現代まで受け継がれている。
正史『日本三代実録』は9世紀後半、都でたびたび疫病が流行したことを記す。貞観3(861)年に赤痢で多くの子どもが亡くなり、その後もインフルエンザとみられる「咳逆(がいぎゃく)」で多数の死者が出た。
疫病の原因は、かつて暗殺事件の嫌疑をかけられた早良(さわら)親王(750~85)ら、非業の死を遂げた6人の怨念にあるとされ、朝廷は貞観5(863)年、大内裏の南にある神泉苑で初めて「御霊会(ごりょうえ)」を開き、疫病の終息を願った。西本昌弘・関西大教授(日本古代史)は「無実の罪で謀反などの罪に問われた人々の霊を慰め、読経や供物・芸能でもてなし、疫神にならないようにするためだった」と話す。楽人は音を奏で、子供たちが舞い踊り、都の人々は自由にみることができたという。
御霊会は、その後しばらく記録に登場しないが、10世紀末になると民衆主導で開かれるようになる。この時もまた、人々は疫病に苦しめられていた。
都から人が消えた
歴史書『本朝世紀』などによ…