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 「文明の生態史観」「知的生産の技術」など独創的な文明・文化論で知られる民族学者の梅棹(うめさお)忠夫さん(1920~2010)。今年は生誕100年、没後10年にあたる。新型コロナウイルス感染症が拡大した今、梅棹さんなら何を考えただろうか。かつて多くの学生や研究者が集まった京都市左京区の旧邸で、次男で陶芸家のマヤオさん(68)と、梅棹さんの評伝を著したフリーライターの藍野(あいの)裕之さん(58)に想像してもらった。

 梅棹さんは同市上京区の西陣で生まれ育ったが、ルーツは滋賀県長浜市の菅浦で、珍しい名字は琵琶湖で勢力をふるった水軍の棹と関係があるという。先祖は京都に出て大工となった。梅棹さんも大工仕事が得意だった。

 京都大理学部で動物学を専攻。大阪市立大助教授、京都大人文科学研究所教授などを経て、1974年から93年まで国立民族学博物館(大阪府吹田市)の初代館長を務めた。94年には文化勲章を受章した。モンゴル、アフガニスタン、アフリカなど数々の現地調査で知られる「知の探検家」だった。

 中国から帰国後、ウイルスによる視神経炎のため、視力を失った。マヤオさんは「当時65歳だった父の失意は深かった。しかし、周囲のサポートによって口述筆記で全23巻の『梅棹忠夫著作集』を刊行し、『月刊うめさお』といわれるほど多くの本を出した。それだけ多くの知の引き出しを持っていた」と振り返る。

 「梅棹忠夫 未知への限りない情熱」(山と渓谷社)の著書がある藍野さんは「梅棹さんなら、新型コロナウイルス感染症が広がる中、人類にどんな未来があるかを考えただろう。自然と文明、生態と文明といった雄大なスケールで、人類が生き方をどう変えていったらいいかを提言したのではないか」と指摘した。

 マヤオさんは「父が生まれた1920年はスペイン風邪が世界で猛威をふるった。医学が発展した今でもパンデミック(世界的大流行)は起こった。科学の発展はパンデミックを食い止められるのかを父は考えたのではないか」と話した。

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 梅棹さんの旧邸には60年代、多くの学生や研究者が毎週金曜の夜に集まり、自然科学、人文科学、社会科学などの枠を超えて様々な議論をした。梅棹さんは若い人たちに自宅を開放。それは「金曜サロン」「梅棹サロン」と呼ばれた。冷蔵庫のビールは飲み放題だった。マヤオさんは2015年、その旧邸をギャラリーに改修し、梅棹さんが得意だったエスペラント語で「ロンドクレアント」と名づけた。「創造者の集まり」という意味だ。

 マヤオさんと藍野さんは「楽しみながら大きなスケールで学問を考え、集まる場を作った梅棹さんの志を知ってほしい」と話した。

 国立民族学博物館は9月3日~10月20日に梅棹さんの企画展「知的生産のフロンティア」を開く予定だ。(大村治郎)