拡大する写真・図版戦前に小湾集落があった場所に立つ比嘉清さん。米軍牧港補給地区(キャンプ・キンザー)の第5ゲートは、小湾集落の中心地だった=2020年6月17日、沖縄県浦添市、国吉美香撮影

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 過酷な体験を語ってはきたが、それでも口にできなかった記憶がある。終わらない戦争の証しを残してきたけれど、不安がぬぐえない。県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦から75年。生存者たちがいま、伝えたいこととは。

語り部をしても、語れなかった記憶

 那覇市の安元勝子さん(81)は40年以上、県外の若者らに沖縄戦の体験を語ってきた。

 家族と逃げ惑った沖縄本島北部の山中で、砲弾の破片に腹部をえぐられたこと。看護要員として日本軍に動員された姉が、米軍の火炎放射で変わり果てた姿になり、再会できた翌年に息を引き取ったこと。

 生きたくても生きられなかった多くの人たちのことを伝え、命の大切さを考えてほしかった。それでも長い間、詳しく語ることのできなかった記憶があった。

拡大する写真・図版昨年、老人会に参加した時の安元勝子さん=次女・玉城よしのさん提供

 沖縄の日本軍が壊滅状態となった1945年6月を過ぎてからだった。本島北部の山中にはなお、逃げ続ける日本兵や住民がいた。安元さんは米軍にとらえられた後、すでに収容所も出て、疎開先の集落に身を寄せていた。

 あるとき、地元出身の英語を話せる男性が、日本兵に追い回されて首を切り落とされたのを見た。別の日には、年配の男性が山に向かって、逃げている住民らに投降を呼びかけると、どこからか現れた日本兵に刺し殺された。

 日本軍は、軍人と民間人が入り…

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