沖縄戦から75年。コロナ禍の今年は、県内各地の追悼式や慰霊祭は規模縮小や中止を余儀なくされた。人との接触を避けなければならない中で、家族や友人をどのように悼むのか。毎年慰霊の日の23日朝に取材をしてきた「平和の礎(いしじ)」にこの1週間、記者たちが通い、訪れる人たちの姿を見つめた。
黒い御影石が波打つように広がる。沖縄本島南端に立つ「平和の礎」には、県出身者や日米両軍の兵士ら24万余の名前が刻まれている。
1週間前、16日昼過ぎ。強い日差しが降り注ぐなか、マスク姿の人が杖を手に歩いていた。上地徳於(とくお)さん(86)。今年新たに刻銘された30人のなかに父がいる。「上地戸那(とな)」。名前を見つけると、たしかめるように何度もなぞった。
戸那さんは宮古島市で農業を営んでいた。イモ、大豆、サトウキビ。なんでもつくれる自慢の父は1944年、日本軍の飛行場建設に従事中、デング熱に感染し死亡した。49歳だった。
上地さんは95年の慰霊の日、完成したての礎に足を運んだ。線香の香り、悼む人々。「父の存在もこの場所に刻みたい」と思った。仕事が忙しく、申請できずにいたが、ようやく実現できた。「ほっとしています。父ちゃん、よかったね」。白い菊を供えた。
平和の礎を訪れる高齢の遺族や友人ら。コロナがかえって伝承への思いを強めたといいます。
17日午前10時半。仲本政…

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