北朝鮮に拉致された娘・横田めぐみさんの帰還を求める運動に後半生を捧げた横田滋さんが6月5日、87歳で亡くなった。2007年まで拉致被害者家族会代表を務めていた。
娘のめぐみさんは1977年11月15日午後6時半ごろ、バドミントンの部活を終えて下校中、突然姿を消した。13歳、中学1年生だった。その前日、滋さんは45歳の誕生日に、娘からプレゼントとしてくしを受け取っている。そのくしを、ずっと肌身離さず持ち歩いた。
私は東京社会部に赴任した1997年から足かけ23年間、拉致問題の取材にかかわってきた。北朝鮮の拉致に対して強い言葉で怒りを表現する被害者家族が多いなか、滋さんは内に秘めた怒りをほとんど見せず、いつも柔和な笑みをたたえていた。
横田滋さんの足跡を、膨大な取材メモから5回の連載でたどります。(肩書は当時)
発言の合間に「ごほ」の文字
そんな滋さんが、怒りと悲しみをあらわに、顔を真っ赤にして記者会見に臨んだことがあった。2002年9月17日、史上初の日朝首脳会談で北朝鮮から拉致被害者の「8人死亡5人生存」が伝えられた後、同日午後6時前から衆院第1議員会館で開かれた家族会の会見でのことだ。
「いい結果が出ることを楽しみにしておりました」と当時69歳だった滋さんは切り出した。「しかし結果は、死亡という……残念なものでした」。目に涙をため、せき込んで言葉に何度も詰まる。当日の様子を書きとめた私のノートには、滋さんの発言内容の合間に、せきの音を示す「ごほ」との文字が記されている。
会見の前に家族らは外務省の…