拡大する写真・図版横田滋さんの43年

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 拉致被害者家族、横田滋さんの半生を取材メモでたどる連載の2回目は、家族会を結成するまでの歩みをひもときます。

 横田滋さんは1932年に徳島県で生まれ、11歳で札幌へ転居。高校卒業後に日本銀行に入り、札幌支店から転出する1961年まで札幌で過ごす。名古屋支店時代の62年、知人の紹介で早紀江さんと結婚。64年10月に長女めぐみさんが生まれた。

拉致の5日前、初めての記事

 東京の本店、広島支店を経て76年に新潟支店へ。翌77年11月15日夕、中学1年だっためぐみさんは、バドミントン部の練習を終えて下校途中に失踪する。

 私が1990年、朝日新聞記者になって最初の赴任地は新潟だった。新潟県警に詰めて事件事故の取材を担当した。新潟市内でアパートを借りて住んだ場所は新潟大学医学部に近く、後から思えばめぐみさんの拉致現場も、横田さんらが住んだ日銀の社宅も歩いていけるような場所だったが、新潟赴任中にめぐみさんの話を聞いたことはなかった。

拡大する写真・図版横田めぐみさんの写真を手に、街頭で署名を呼びかける(右から)早紀江さんと滋さん=1997年10月4日、東京・有楽町

 当時、少女の失踪といって私が思い出すのは、90年11月に新潟県三条市で小学4年生の女児が下校中に姿を消した事件だった。失踪現場は水田が広がる見通しのよい場所で、私も取材のため何度も通った。この少女についても消息がわからないまま年月がたったため、滋さんは一時は「めぐみの件と同一人物による犯行の可能性もあるのではないか」と考えたという。ただしこちらは9年後に男が捕まり、19歳の女性を保護。失踪直後から9年間、新潟県柏崎市の犯人宅に監禁されていたことが判明した。

 めぐみさんの行方についての手がかりがないまま、滋さんと早紀江さんは「真っ暗闇の20年間」を過ごすこととなる。その間、拉致問題解明の努力を続けていたのは、各地の警察と、ごく少数の記者たちだった。

 朝日新聞に初めて拉致問題の記事が出たのは1977年11月10日朝刊社会面。めぐみさん拉致の5日前だ。見出しは「三鷹市役所の警備員 工作船で北朝鮮へ 懐柔? 日本人では初 能登半島から密出国」。東京都三鷹市の警備員・久米裕さんが77年9月、石川県の海岸から北朝鮮に送り出されたとの内容。警察にとっても当時は、久米さんが自発的に出国したのか、強制的な拉致かは判然としなかった。

拡大する写真・図版朝日新聞が久米裕さん拉致事件を伝えた1977年11月10日付朝刊社会面記事

 翌78年7月から8月にかけ、福井、新潟、鹿児島の3県で若い男女が相次いで失踪した。同じころ富山で起きた男女拉致未遂事件の捜査により、北朝鮮工作員による犯行の疑いが浮上。1980年1月7日から、産経新聞の阿部雅美記者が連続で大きく記事を載せた。しかしこれらの報道は、日本のメディア全体には広がらなかった。

「世論が盛り上がれば」

 85年には韓国情報機関が北朝鮮工作員の辛光洙(シン・ガンス)容疑者を逮捕。辛容疑者が原敕晁(ただあき)さんを拉致して原さんになりすましていたことが発覚した。また87年の大韓航空機爆破事件実行犯として韓国当局に逮捕された金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚の供述により、金元死刑囚の日本語教育係・李恩恵(リ・ウネ)は、東京から拉致された田口八重子さんであることが判明した。拉致問題は日朝協議でも話題になったが、北朝鮮側は全面否定を続けていた。

 めぐみさんが北朝鮮に拉致され…

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