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 東日本大震災から9年。大津波で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市の県立高田高校野球部にとって、2020年は少し特別な年になるはずだった。震災後、専用グラウンドに立っていた仮設住宅の撤去が終わり、心おきなく練習できるようになったからだ。

 「作業が始まったのは昨年の夏くらい。水道やガスの配管もあったので、一度地面を掘り返すなど大変だったみたいです。年が明けて2月、グラウンドが使えるようになりました」

 赴任して3年目の佐々木雄洋監督が説明してくれた。左中間の後方にいけば、かさ上げ工事が終了したかつての市街地、その向こうに高さ12メートル、長さ2キロに及ぶ巨大な防潮堤、そして、いまは穏やかな太平洋が眼前に広がる。

 震災当時、津波は高田高の校舎3階まで押し寄せ、学校裏の高台にあった野球部のグラウンドには生徒や地域住民が避難した。しばらくして、20キロほど離れた大船渡東高萱中(かやなか)校舎(当時)を借りて授業を再開。グラウンドには仮設住宅が建った。15年、仮設が立ち並ぶ脇に新校舎ができたが、野球部は大船渡までバスで移動して練習しなければならなかった。

 ようやく整った、地に足をつけて甲子園を目指せる環境。高田高野球部にとって、甲子園は必ず戻ると誓った場所だ。初出場だった1988年夏の1回戦。あと1イニングを残し、降雨コールドで敗れた。作詞家の阿久悠はスポーツ紙の連載で、「きみたちは 甲子園に一イニングの貸しがある そして 青空と太陽の貸しもある」と詠んだ。

 当時の選手のなかには、いま少年野球の指導者もいる。もう一度、甲子園への思いは自然と地域の子どもたちに伝わってきた。今年こそ、今年こそと、震災でも絶えずにバトンをつないできて、今回のコロナ禍だ。大槌高にいた震災時は自らも被災。その後は久慈高と、一貫して太平洋沿岸地区の高校で指導してきた佐々木監督は、震災とは違う厳しさを実感した。

 「当時は希望があったんです。野球の好きな子たちの希望は野球なんで。つらいことはいっぱいあるけど、その希望が気持ちを前へ向かせてくれた。今年、岩手は野球ができるけど、夢の場所がない。いくら『野球を通じた人間的な成長が目的』って言ったって、高校生がなんで練習するかって、うまくなって甲子園に行きたいからですよ。そのゴールがない」

 5月20日、全国高校野球選手権大会の中止が決まったとき、佐々木監督は部員を前にして言葉がすぐ出てこなかった。「きょうは自分の感情と向き合え」と伝えた。泣いていた部員たちも、いつものように野球ノートのページを開けた。

 4番の千葉大輝(3年)は「気持ちがまだ整理できていない」と書いた。そして次の日、吹っ切れたように「自分たちのなかに甲子園はある」とつづった。

 「実際に中止が決まった20日は、ごはんものどを通らないくらい気持ちが落ち込んだ。でも、ここで落ち込んでいても、前に進めないなと思って。心の中に甲子園はあるから、その甲子園に向かって自分はやるぞ、という気持ちをつくりました」

 表紙に「地元のために」と書いている投手の佐藤真尋(3年)。20日もそれまでと変わらず、ノートに「甲子園へ」と記した。そして今も「甲子園へ」と書き続けている。

 「1日でも、甲子園という言葉を消してしまうと、気持ちがブレるような気がする。自分たちは陸前高田、地元の人たちをまず喜ばせたい。甲子園は中止になってしまったけど、県の大会はある。そこで優勝すれば、地元のためにもなるし、活気にもつながると思う」

 室内練習場のホワイトボードには、部員の誰かが書いたこんな言葉があった。「高田に俺達の手で喜びを」。岩手県高野連による独自大会は1日から始まった。高田高は5日に登場し、初戦を突破した。一つでも多く勝って復興へ進むふるさとを盛り上げ、そして優勝したら、佐々木監督は部員たちと甲子園へ行くと決めている。「だって、その資格がある生徒たちですから。試合はないけど、連れて行きます」。青空の甲子園に立つ願いを、また受け継いでいく。(山下弘展)