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 仙台市泉区の梅津征雄(ゆきお)さん(79)は30代のとき、野球好きが高じて自分の畑を切りひらき、私設の球場をつくってしまった。それから今年6月で40年。思いっきり白球を追えない日々もあった。野球少年たちと紡ぐ「フィールド・オブ・ドリームス」物語――。

 通称「梅津球場」は、間近に泉ケ岳を見上げる根白石(ねのしろいし)地区にある。2ヘクタールの敷地にグラウンドが2面あり、メイン球場は両翼85メートル、センター103メートル。照明設備も整っている。

 バスの運転手をしていた梅津さんは、長男に長嶋茂雄の「茂雄」と名づけるほどの野球ファンだ。自身がうちこんだのはバレーボールだったが、3人の息子にはもちろん、小学校から野球をやらせた。

 ただ、農村部の少年野球チームは、仙台のまちの子に負けてばかり。「弱小チームを鍛える練習試合の場所があればなぁ」と考えたのが、きっかけだった。たばこ畑と雑木林が広がる所有地をつぶすことにした。砂利採取業者が粗く整地をした後、家族総出で整備に励んだ。

 手押し車で土を運び、トンボでならす。ルールブックと巻き尺を手に配置を決め、外野に芝を張り、木陰をつくろうとケヤキを植えた。「近所の人は大バカ者だと思ったでしょう」と、梅津さんは笑う。

 こけら落としは1980年6月22日。地元4小学校のチームを集めた「第1回梅津杯少年野球大会」だ。春秋年2回の大会は、名称を変えて今も続く。

川の氾濫で土砂が…助けてくれた親子たち

 根白石周辺にはその後、住宅団地が次々できた。小学校が増え、梅津杯の参加は10チームまで膨らんだ。この球場で育ち、強豪高校に進んで甲子園の土を踏んだ選手が何人もいる。

 仙台育英の現野球部長、早坂和晋さん(25)もその一人。「根白石小のチームからは、自分を含め甲子園球児が3人も出た。泉区の少年野球のレベルが上がったのは、梅津杯のおかげです」と懐かしむ。

 梅津さんは、時々ネット裏にやって来ては、子どもたちの上達ぶりに目を細める。「でも、口は出しません。俺はグラウンドキーパーだから」。3週間に一度、外野に伸びた雑草を刈るのが仕事だ。

 少年野球のほか、地域のソフトボールチーム、中学生の硬式野球チーム(リトルシニア)が、練習や試合に使う。梅津さんの手書きの予約台帳は、いつもびっしり埋まっている。

 5年前の豪雨では、球場そばの七北田川が氾濫(はんらん)。土砂が流れ込み、外野フェンスがなぎ倒された。梅津さんは「もうこれまでだ」と思ったが、ふだん使っていた子どもや親たちが泥の撤去に汗を流し、球場は復活を遂げた。

いつか、プロ野球選手を

 球場から200メートルほどの所に梅津さんは住む。毎日楽しみだった打球の音がこの春、ぱたりとやんだ。新型コロナウイルスの感染防止のため、大勢集まっての運動ができなくなったのだ。

 初期の梅津杯に出ていた選手の息子が他県の高校でエースになり、今春の選抜大会出場を決めた。梅津さんは念願の甲子園に応援に行くはずだったが、その夢は消えた。球場40周年の行事も難しい状況だ。

 「子どもたちには、めげずにがんばれと言うしかねぇ」。6月、ようやく練習が再開され、梅津球場に球音が戻ってきた。

 「土地を売らないか」と引き合いもあるが、梅津さんは断り続けている。いつかここからプロ野球選手を飛び立たせるのが、夢だ。(石橋英昭

     ◇

 〈映画「フィールド・オブ・ドリームス」〉 1989年の米映画。ケビン・コスナー演じる農場主が、不思議な声に導かれ、トウモロコシ畑をつぶして球場をつくる。挫折を味わった野球人たちとの心温まる交流物語。翌年日本でもヒットした。梅津球場の完成は映画公開の10年も前のことだ。