球児襲った2度の災厄 甲子園の土流された父の言葉励み

中村建太
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 岡山県倉敷市真備町の原田将多君(18)は2年前の春、甲子園を夢見て倉敷商野球部へ入った。その夏は西日本豪雨で自宅が浸水し避難生活に。主将となった今年の春、つかんだはずの甲子園の夢を新型コロナウイルスが奪った。苦難に次ぐ苦難の高校生活。それでも最後の夏、用意された舞台へチームの先頭に立つ。

 「いくでぇ」。自粛期間を経て、6月から練習を本格的に再開した倉敷商のグラウンドに原田君の声が響く。ノックでは遊撃の守備位置へ真っ先に飛び出し、打撃練習では快音を連発する。

 出場を決めていた今春の選抜大会も夏の選手権大会も中止された。今の目標は7月に始まる夏季県高校野球大会だ。8月には選抜出場予定だった32校が甲子園に招待される交流試合もある。原田君について「野球も野球以外もどんな状況でも変わらず前向き。筋が一本通っている」と梶山和洋監督(33)は言う。

 2年前の7月6日夜。

 真備に避難勧告が出され、グラブやユニホームを車に積んで家族で避難所へ向かった。大きな被害が出るとは思わず、翌日は避難所から練習試合に行こうと考えていた。

OBの父の背中を押した言葉

 親戚の家などを転々とし、3日後に戻った自宅は2階まで浸水していた。倉敷商OBの父浩司さん(49)が1988年夏に甲子園に出た際に持ち帰った土も流されてしまった。

 「野球をやっていいのか」。悩む原田君の背中を父が押した。「家のことは任せろ。練習に行け」。中学時代のチームメートの家に受け入れてもらい、そこから練習に通った。

 1カ月ほどたち、学校に近い賃貸アパートに家族と移った。自宅はもとあった場所に再建されたが、浩司さんらは原田君の練習を優先し、3年生の夏が終わるまでアパート暮らしを続けることにした。

 2年の夏、岡山大会は決勝まで進んだ。1点を追う九回2死二塁。原田君に打席が回ったが、三振に倒れ、期待に応えられなかった。「先輩や家族のために」。そんな思いを背負い、秋は勝負強い打撃を連発。接戦を次々制し、中国大会で初優勝した。

 年明け、選抜大会出場が決まると父はもちろん、地元・真備の被災者らも喜んでくれた。「真備の人にも元気を届けられるようなプレーをしたい」。そんな原田君を応援しようと、真備から甲子園へのバスが数台出ることも決まっていた。

 しかし3月初旬、感染拡大で学校は休校となり、選抜大会は史上初の中止に。浩司さんによると原田君は激しく落ち込み、部屋にこもり続けていたという。

当たり前の裏に誰かの支え

 吹っ切れたのは、4月に入り全体練習が一時再開したときだった。仲間と野球できるのがこんなにありがたいなんて――。そんな気付きが変化をもたらした。再び練習休止となった後は、浩司さんが舌を巻くほどハードな自主トレーニングに、黙々と取り組んだ。

 夏の甲子園の中止方針が報じられた5月半ばには、自身はすでに覚悟していた。3年生の仲間のことが気になり、25人全員に1人ずつ電話をかけた。伝えたのは「甲子園は無くても、何らかの大会があれば頂点をめざそう」。

 「そうだね。今まで頑張ってきたことを出し切ろう」。マネジャーの野口彩花さんはそう応じた。必ず一番早く練習に来て、一番遅く帰る原田君の努力を知る。3年生の代を示す「原田世代」と記したプレートを作り、3年生が寄せ書きしたものを6月、グラウンド脇の河川敷に立てた。

 選手権大会の中止を受け、県高校野球連盟が独自開催する夏季県高校野球大会の開始式で18日、選手宣誓に立つ。県内の監督が集う会議で推薦する声が相次ぎ、全会一致で選ばれた。「豪雨とコロナで気付いたのは、当たり前だと思っていることは必ず誰かの支えがあるということ。心に刻んで野球をするようになった」。宣誓ではそんな感謝を伝えたいという。(中村建太)

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