私たちが日常的に読み書きする日本語は、今ではほとんどがヨコ書きだ。タテ書きに固執する気はなくとも、その行く末は気になる。タテ書きは消えゆく運命なのだろうか。
タテ書きとヨコ書きの行く末は? 歌人の井上法子さん、慶応義塾大教授の屋名池誠さん、早稲田大准教授のドミニク・チェンさんに聞きました。
井上法子さん「タテ書きは言葉と向き合うためのフォルム」
高校2年生だった頃、前衛歌人といわれる塚本邦雄の作品に出会い、短歌の魅力を知りました。解釈や読みの決まりごとを退けるような、自由な楽しさにあふれていて、とても新鮮でした。上京して大学の短歌サークルに入り、本格的に歌を作り始めました。
最近はSNSでたまたま目にした短歌にひかれて、ヨコ書きで短歌を作り始めるという人も多いようです。私は図書館の本で短歌と出会ったからなのか、推敲(すいこう)の段階からすべてタテ書きを使います。
散歩に出るときはノートを携帯し、浮かんだ言葉やイメージをタテ書きでメモしています。スマホしか持たないときも、タテ書きで記録できるアプリを使っています。ヨコの走り書きも、表現の段階で必ずタテに直します。
作品はまず自分の字でタテに書き、「生々しさ」を消し去るために無機質なパソコンの文字に変換して眺め、納得したら、自分の手元から送り出しています。
と言っても、これは昔から無意識にそうしているから、にすぎません。短歌はタテに書かないと表現できない、といった信念やポリシーがあるわけではありません。
いまは大学院の博士課程に在籍して文学を研究しています。私の所属する専攻は、論文の掲載がヨコ書きなので、短歌を引用するにもヨコ書きで表記せざるを得ない場合が多いのですが、慣れなのか、さほど違和感はありません。
なぜ自分はタテ書きで歌をつくるのか。私は、タテ書きを「言葉と向き合うためのフォルム(形式)」と感じています。じっくり時間をかけて向き合い、初めてその姿が見えてくる言葉がタテ書きに適しているように思います。
私は、言葉を水のように感じることが多いのですが、タテ書きを例えるなら、それは「雨」のイメージです。雨が空から降り注ぐように、タテ書きの言葉は重力に吸い込まれるように上から下へ落ち、読むと自分の身体の芯を貫いてゆきます。その後、体の内側からじっとりと濡(ぬ)れていく感じに近いのです。
これに対し、ヨコ書きの言葉は「川」のように感じます。
言葉に浮力があり、目に飛び…