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 「先輩、どっちが勝ってますか?」。試合場の斉藤仁(ひとし)は、心の中で叫んだ。

 1988年10月1日、ソウル五輪の柔道男子95キロ超級準決勝。相手は3年前の世界選手権で大けがを負わされた因縁がある、地元・韓国の趙容徹だ。互いにポイントがないまま、終盤に相手がタイムをかけた。その時、正面の観客席にいる山下泰裕を見上げた。

 「先輩は『うんうん』とうなずいてくれた。それで自分の優勢を確信し、安心できたんだ」。当時の記憶をたっぷり話してくれたのは2003年秋。「先輩はテレビの解説をしていた。その中継の中でもアナウンサーが『今、斉藤選手が山下さんを見ましたね』と言ってんだよね」

 心と心が通じ合った感じですか? 「信じられないかもしんないけど、そうなんだよ。俺と先輩には、2人にしか分からない世界がある。真のライバル、戦友って、そういうもんなんじゃねえのかな」

 1961年青森市生まれの斉藤は小学生の時、テレビ番組「ミュンヘンへの道」を見て五輪に憧れた。「バレーの全日本チームを題材にした番組で、倒立歩行のテストがあるんだ。そうか、逆立ちができないと五輪に出られないんだ、と思って必死で練習したね。動けるデブだからさ、おれ」。テレビドラマ「柔道一直線」も夢中で見た。「主人公の必殺技『地獄車』に憧れ、毛布にくるまれて雪の坂道を転げ落ちた」と笑っていた。

 全盛期は身長180センチ、体重140キロ。巨体ながらスピードや切れもあった。抜群の身体能力は、幼少期から備わっていたようだ。

 中学から柔道を始め、高校から上京した斉藤は、国士舘大1年の秋に3学年上の山下と初対戦。6分を超える熱戦を演じ、「ポスト山下」「山下2世」と注目された。両雄のライバル物語はここから始まる。

 一方、国際大会では日本柔道の重量級をともに背負う同志となった。84年ロサンゼルス五輪では斉藤が95キロ超級、山下は無差別級で金メダルを獲得した。

 そして3年連続の決勝対決となった85年の全日本選手権を最後に、山下は現役を引退。日本柔道の大黒柱となった斉藤はその後は故障に苦しむが、何とかソウル五輪にたどり着いた。

 日本男子は一人も決勝に進めな…

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