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 75年前の7月14日、岩手県釜石市は本州で初めて艦砲射撃に襲われた。8月9日にも釜石は標的となり市街地は焼失。軍用機による機銃掃射を合わせて、少なくとも773人もの命が奪われた。時は流れ、当時を知る人たちは少なくなりつつあるが、戦禍の記憶は心に残り続けている。

当時4歳、父は即死

 釜石市で生まれた太田浩子さん(79)。艦砲射撃があった1945年は4歳で、当時の記憶はほとんど残っていない。ただ、あの光景だけは、鮮明に焼き付いている。

 7月14日。午前11時ごろ艦載機による偵察飛行と機銃掃射が始まり、正午過ぎから約2時間にわたり砲弾が撃ち込まれた。空襲警報がなるといつも一緒に逃げていた父が、この日ばかりは親族が営んでいた料亭に向かった。「『守らないと』と思ったんでしょうね」

 鉄かぶとに軍用機の弾が当たり、父は即死だったと聞いた。誰かが格子柄の布団をかけてくれていた。母がそれをめくって泣いていたのを今も覚えている。

 76年に釜石市が発行した釜石艦砲戦災誌には、1回目(7月14日)の戦死者欄に約390人分の氏名が掲載されており、父・山田俊一さんも含まれている。

 薬剤師だった父がいたころ、家庭は裕福だった。他の人たちが黒の短靴を履くのに、自分一人だけがきれいな緑色。それが自慢だった。軍歌に合わせてたたく太鼓がほしいとせがめば、すぐに買ってもらえた。

 そんな生活は父の死で一変した。太田さんの母は8月に生まれる弟を身ごもっていた。妹や太田さんを抱え一人で育てるのは大変だと、出身地の山田町に身を寄せた。そこには北三陸部隊などが配置されていた。

泣きやまない妹に「出て行け」

 8月10日、山田湾に停泊していた海軍掃海艇と基地が爆撃された。太田さんは母たちと防空壕(ごう)に逃げた。妹が泣きやまず、壕の中にいた人から「出て行け」と言われ、母は太田さんの手を引いて外に向かいだした。「死んでもいい」。母はそうつぶやいていた。

 入り口まで来たところで、低空で飛ぶ軍用機が目の前を通った。「バーッと飛行機の大きな音がしたと思ったら、ババババババと近くの墓場に弾が落とされた」。太田さんはあの胸に響く音を今も思い出す。

 戦後、母は山田線に乗って野菜を売り歩き生計を立てた。太田さんは学校が終わると缶詰工場で働いた。中学卒業後は愛知県一宮市の紡績工場へ出稼ぎにいった。毎日生きていくのに必死で、母や友達と艦砲射撃や空襲について話すこともなかった。

 結婚後も、食品製造や事務所の電話番など職を掛け持ちしながら子どもを育てた。これまで家族にも戦争体験を話したことはない。「子どもたちに同じ苦労をさせたくないと働きづめだった。苦労ばかりの人生だった」。体が弱かった夫は約30年前に亡くなった。

 いま、次男家族と計6人で暮らす。朝起きて弁当を作り、孫が学校から帰ってきたら夕飯を用意する。家族のための生活は変わらないが、自分の時間も持てるようになった。茶のみ友達に踊りを教えたり、一緒に高齢者施設を回って披露したりしながら日々を過ごす。「今が一番幸せ」と太田さんは笑った。(上地一姫)