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 松山で子どものころに空襲を体験し、高松で空襲の被害を語り継いでいる人がいる。戦争をありのままに伝えたいとの思いで半世紀近く続けてきた。コロナ禍で人々が監視しあうかのような社会の風潮に、75年前が重なってみえるという。

 岡田昌子さん(87)は、松山市で生まれ育った。

 12歳だった1945(昭和20)年7月26日夜、空襲警報が鳴り、母や姉と着の身着のままで家を飛び出した。いつもは自宅の地下壕(ごう)に隠れたが、父は遠くへ逃げろと告げた。父は町内にも呼びかけるため残った。

 南東の郊外へ走って逃げ、田んぼの水につかって一夜を過ごした。翌朝、土手に上ると、自宅のある市街地は一面焼け野原だった。山の上の松山城は残っていたのを覚えている。父とは無事再会できた。

 自宅は全焼した。防空壕に入れていた家財道具も焼け焦げていた。家族で伯父の寺に移り、毎日往復12キロ歩いて女学校へ通った。

 空襲の犠牲になった同級生もいた。町も焦土になった。それでも岡田さんは動じなかった。

 「熱心な軍国少女でした。日本が戦争に負けるとは思いませんでした」

 ただ、8月15日の敗戦は、意外にもすんなりと受け入れられたという。

 戦後、夫の仕事で59年、高松に移り住んだ。「安保闘争」に沸く世の空気にも刺激されてか、ずっと抱いていた思いが強くなった。

 「もう一度、歴史を学び直したい」

 戦時中の教育は歴代天皇の暗唱や軍隊の美談――。疑問に感じなかったことへの自省の思いもあった。

 知人ら7、8人のグループで高校教師から歴史を教わった。あるとき、高松空襲(45年7月4日)の話題になった。東京をはじめ各地で空襲被害を記録する動きが広がっていると知り、72年に「高松空襲を記録する会」を結成した。

 メンバーは各自の仕事の傍ら、正確な実態が分かっていなかった高松空襲の犠牲者を調べた。市や消防、遺族会、火葬場などが保管する名簿を照合した。住所が判明した遺族にはがきを送ったり、直接足を運んだりして話を聞いた。

 こつこつと作業を重ね、空襲の死者が1359人になることを突きとめた。調査の成果は犠牲者名簿や証言集などにまとめた。

 89年からは毎年7月4日、空襲の痕跡を歩く行事を開いた。焼け残った銀行や駅舎、大勢が犠牲になった地域や慰霊堂を回り、多い年は130人余りが参加した。メンバーらの呼びかけで中学生や若者らも集まり、空襲体験者の話に耳を傾けた。

 ただ、体験者の高齢化でコース…

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