高校野球の美学、「主人公」が終えきること 重松清さん

聞き手・寺尾佳恵
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 新型コロナウイルスの影響で、2020年は春夏の甲子園など様々な大会で中止が決まった。全国で独自大会が開かれる中、「熱球」「アゲイン」など野球を描いた作品の多い作家の重松清さん(57)に、甲子園への思いと球児へのメッセージを聞いた。

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 高校野球を初めて球場で見たのは母校の応援に行った高校1年生のとき。同級生がクリーンアップで、こういうやつがプロに行くんだろうなと感じた。中学生の時は野球部で、高校野球もテレビでよく見ていた。

 中高時代に山口県に住んでいた僕は、この線路をずーっとたどっていった先にあこがれの東京があると思っていた。同じように甲子園も、自分がたどり着けるかどうかは別問題として、毎日の練習の延長線上のはるか先にある、と。それを信じていられるのは幸せだよね。

 今年はコロナで甲子園がなくなり、夢を見ることも目標にすることもできなくなってしまった。確かに、甲子園という夢はすごく大事だと思う。でも夢が一つしかないのは不安定で、寂しい。ある種の中央集権的な、究極の目標としての甲子園を残したままで良いから、早慶戦のような定期戦や、レギュラーを目指す、ヒットを1本打つという別の物差しでの夢や目標があっても良いと思う。

 高校野球は「最後の夏」というように、タイムリミットがあるのが魅力だけれど、今回のような問題が起きるとそこで終わってしまう。やっぱりしっかり終わらせてあげたいよね。

 なんで野球が好きかって「プレーボール」で始まるでしょ。プレー。試合は楽しいものなんだよ、絶対に。ゲームセットも、何かを全うした感じがして良い。断ち切られ感があるジ・エンドじゃない。

 だからグラウンドに立たせてあげたいし、試合をさせてあげたい。試合の勝った負けた、打った抑えたを味わわせてあげたい。いろんな締めくくり方がある中で、やっぱり「終わるための締めくくること」はやっておいた方が良いと思うんだよな。

 その点、世間の後押しがある野球は恵まれている。他の部活も隣の学校との試合や発表会など、何かやってきたことの締めくくりはさせてあげたい。

 僕のデビュー作「ビフォア・ラン」は部活引退から卒業までの話。短編「終わりの後の始まりの前に」の主人公は、最後の試合で自信を持ってボールだと見送った球をストライクと判定され、三振で高校3年の夏を終えた。終わったけれども次を始められない中途半端な状態を描きたかった。

 しっかりと終われなかった主人公たちに何か終わりの瞬間を与えたいというのが、僕の若い頃からの根っこにある。親の都合で突然の転校が多かった。修学旅行も行きたかったし、卒業式も出たかったという思いがあるのかもしれない。

 でも、「しっかりと終わりきる」って意外と難しいよ、誰の人生の、どの場面でも。現実の世界で僕たちがあまり上手に終われていないからこそ、高校野球の持っている終わりの美学にひかれるんだろうな。

 独自大会の開催で、独自ルールもたくさんできた。ベスト8まで、7イニング制、登録選手数を増やす、タイブレークを導入するなど、期せずして都道府県に相当権限が移った。忘れがちだった地元や地域みたいなものを改めて教えてもらったし、「ふるさとの高校野球は俺たちが作る」と独自のリーグ戦を始めるなど、新しい機運を高めるチャンスになるかもしれない。そうすれば、2020年の3年生が新しい歴史を始めた1期生になる。

 もちろん独自大会というのは不本意な終わり方だと思う。でも君らがやってきたことは絶対無駄ではないし、野球はそれ自体が楽しい。好きだからやってきたということを確認するための試合であってほしいな。

 自分が悪いわけではないのに、思い通りにならない。生きることはそういうことの連続。その中でなんとか光を見つけるために、締めくくりの舞台が用意された。じゃあ、ぜひ、それを思いきり楽しんでほしい。普通通りに甲子園を目指した年とは、またひと味違う、大きなものをつかんでくれるはずだと信じてる。(聞き手・寺尾佳恵)

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 しげまつ・きよし 1963年生まれ。作家。早稲田大学文化構想学部教授。91年に「ビフォア・ラン」でデビュー。99年「エイジ」で山本周五郎賞、01年「ビタミンF」で直木賞。「卒業ホームラン」「赤ヘル1975」「どんまい」など野球を描いた作品も多い。