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 韓国の釜山市が、朝鮮戦争に関する施設などについてユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産への登録をめざす一環で、「碑石村」の調査を進めている。植民地時代に日本人の墓地があった場所で、解放後は戦火を逃れた韓国人がバラックを建てて暮らした。日本統治が終わった8月15日から今年で75年。なぜ日本人の死が残され、その上に韓国人が生を重ねたのだろうか。現場を訪ねた。

 釜山中心部、日本人観光客も訪れるチャガルチ市場の西に、峨嵋(アミ)山という山がある。通称「碑石村」は、山の頂近くにあった。

 小さな平屋建て住宅が段々畑のような山腹にびっしり張り付いている。日本の方向に視線を向けると、遠く海の水面が瞬いていた。

 一人がかろうじて通れるほどの路地に入り、壁の基礎やガスボンベを置く土台などに目をこらした。きっちりと角がつくられ、表面がなめらかな長方形の石を見つけた。墓石だ。横倒しに塀に組み込まれた石には漢字で「明治四十二年五月廿七日没」と刻まれていた。韓国併合の1年前、1909年のものだ。

 江戸時代、釜山には鎖国の例外とされた倭(わ)館(日本では和館)が置かれ、500人ほどの日本人が住み、墓地もあった。1876年、日朝修好条規(江華島条約)で釜山が開港されると、市街地を拡張する必要が出たことなどから、1907年に墓地は現在の碑石村がある場所に移された。

 なぜ、墓地に人が住むようになったのか。道ばたで、他の高齢者たちと談笑していた宋必順(ソンピルスン)さん(81)に話を聞いた。ここに70年近く住んでいるという。

 宋さんによると、日本が太平洋…

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