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 投手の配球、打者のスイング、外野手の肩……。東京学館(千葉)の遊撃手、斎藤太樹君(3年)はいつも、試合の流れを丁寧に読んで守備位置を微調整する。強烈なゴロも最後まで目を離さず、ひざを柔らかく使って受け止める。遠投90メートルの強肩を持ち、糸を引くような送球を一塁手のグラブに届ける。

 「守備範囲の広さと堅実さ」(市川知明監督)が持ち味だ。野球を始めた中学1年の時から内野の守備が好きだった。

 練習試合。遊撃に入ると、バックネット裏の定位置に陣取る保護者の一団が自然と目に入る。おそろいの白い応援Tシャツを着て、攻守で好プレーが飛び出すと、仲の良い母親たちがハイタッチしてわっと沸く。しかし、そこには、自分のプレーを見て喜んでくれていた母・陽子さんの姿はない。

     ◇

 高校1年の夏だった。2018年7月18日の午前5時すぎ。「お母さん、起きてるか?」。仕事先の父からの電話で目が覚めた。父の焦った様子に嫌な予感がした。この時間、母は起きているはず。ベッドで寝ている母の体を揺さぶった。「お母さん?」。動かない。突然の心不全での死去だった。

 その日から生活は一変した。練習中は何も考えず、ひたすらノックを受けた。ただ、疲れて帰宅して玄関を開けても、母の「おかえり」の声は聞こえない。

 父は自分を気遣い、近くに住む母方の祖母は食事や洗濯などの家事を支えてくれた。でも時々、甘辛く、味の濃い母手作りの豚の角煮がどうしても食べたくなってしまう。

 2年の夏。遊撃手としてAチームに入り、ベンチ入りを見据えていた。だが、背番号発表の日、自分の名前は呼ばれなかった。得意だったはずの守備で、ゴロをはじいたり、送球をそらしたりするミスが続いていた。

 「ベンチ、入れなかった」。スマートフォンに写る母に話しかけた。高校の入学式の後、自宅前で自分と撮ったツーショット。母は幸せそうに笑っている。

 生前の母に野球の悩みを相談した記憶はない。でも今の自分を伝えたくて、この頃から語りかけるようになった。「最後の夏まであと1年。俺にできることは何なのかな」

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 チームのため、自分のため、母のため。自分は何をするべきか。

 目指したのは守備の強化だ。コーチにボールを転がしてもらい、捕球動作を一つずつ確認する基礎練習を繰り返した。自主練習でも、仲間の多くが打撃練習をする中、必ずノックを受けた。

 自宅での腕立て伏せは回数を決めず、毎日限界まで続けた。送球ミスを無くそうと、自宅近くの高さ約30センチの小さなブロック塀にボールを投げ、コントロールを磨いた。

 2年の秋。初めて「背番号6」をもらった。「6」と大きく書かれた布を仏壇にそっと置き、報告した。「お母さん、俺、やっとレギュラーになれたよ。夏の甲子園、連れて行くから」

 午前4時半。毎朝この時間に起き、生前は母が作ってくれていた弁当を自分で作る。朝練も放課後の練習も、ランニングも筋力トレーニングも率先してやってきた。

 新型コロナウイルスの影響で夏の甲子園が中止となり、引退を考え、気持ちが揺れた時もあった。県の独自大会が決まり、母にはこう伝えた。

 「2年間、つらいときはいつもお母さんが助けてくれた。甲子園には連れて行けないけれど、野球をしている姿を見守っていてね」(福冨旅史)