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 戦後75年。戦死した祖父のことを詳しく知りたいと思った。5月に叔父が80歳で亡くなり、生前の祖父を知る肉親は5人兄弟の三男で85歳の私の父だけになった。その父も昨夏に脳出血で倒れた。戦争の記憶を記録としてとどめ、記録を記憶し続ける。今が、その最後の機会なのだろう。まずは、祖父の戦争の記録を公的資料から追ってみることにした。同じように調べたい人の参考になれば幸いである。(伊丹和弘

除籍謄本で分かった最期

 敗戦後に解体された旧軍の資料は厚生労働省に引き継がれている。海軍については同省援護・業務課調査資料室が保管しているが、陸軍は1945(昭和20)年1月1日時点で海外にいた部隊別の名簿があるだけで、軍歴などの身上に関する資料(兵籍簿など)は都道府県が引き継いでいる。公的資料に当たるにも下調べが必要だ。

 横浜市に住む父に聞いてみた。祖父の名は源治。新潟県古志郡黒條村(現・長岡市)の農家に生まれ、南方で戦死――。多くのことは覚えていなかった。「本人に軍隊の話は聞いたことがない。そもそも、家にあまりいなかった。陸軍で南方で死んだとお袋に聞いた」

拡大する写真・図版祖父・源治の遺影を持つ私の父(源治の三男)。5月に亡くなった叔父の法要にきた。生前の祖父を知る唯一の肉親だ=新潟県長岡市

 亡くなった叔父にも聞いたことがあった。「物心つく前に出征して、戦死したので顔も覚えてない。戦後にお袋と一緒に村の体育館に骨箱を受け取りに行ったが、中には石ころが入っていただけだった」

 源治の妻、つまり私の祖母は2009年に99歳で亡くなった。最後に会ったのは私の娘の生まれた翌年の03年。そのときに初めて祖父の話を聞いた。最初の言葉は「ずっと戦争に行ってた」だった。従妹で結婚は親同士が決めた。戦前~戦中にかけ5人の子を成し、戦後は食べ盛りの息子5人を独りで養った。「中国に戦争行って、ビルマで死んだ。そう聞いたけど、本当はどこで、なんで死んだか分からね」

 現在は私の従兄が住む本家で祖父の遺品を見せてもらった。数は少なかったが、その中に「善行證(しょう)書」があった。満期除隊の際に与えられるもので、「新潟県 独立山砲兵第一連隊 陸軍砲兵一等卒 伊丹源治」の名と1928(昭和3)年の日付があった。

 陸軍なら県庁に兵籍簿があるはずだ。申請に必要な書類を集める中で祖父が戦死した日時、場所、そして死因が分かった。

 個人の公的記録といえば戸籍だ。戦死して故人である祖父の戸籍は当然、除籍になっている。長岡市役所で取った祖父の除籍謄本には、出生(1906〈明治39〉年)、婚姻、家督相続に続き、「昭和拾九年八月弐拾日午前七時弐拾分ビルマ國タナン南方五粁(キロメートル)地点ニ於イテ戦病死」との記述があった。

記事で紹介した祖父・伊丹源治が従軍した戦場や所属した部隊についてご存じの方、ご遺族の方などから情報をお待ちしています。 宛先は、メールniigata@asahi.com、ファクス0258-34-2561(朝日新聞長岡支局)です。

拡大する写真・図版祖父・伊丹源治の除籍謄本。昭和19年8月20日にビルマ(現・ミャンマー)で戦病死したことが記載されている(画像の一部を加工しています)

 市市民課は「現在は死亡日と亡くなった市町村しか書かれませんが、戦死者はこのように詳しく書かれていることがあります。市では戦死の状況は分からないので、この記述の元になった原本があるはずです」と説明する。

 ビルマは現在のミャンマー。同地では、補給を無視した無謀な作戦の代名詞「インパール作戦」が1944(昭和19)年3月から7月まで行われた。撤退路は餓死者、病死者であふれ「白骨街道」と呼ばれた。祖父もこの作戦の撤退中に、38歳7カ月の人生を終えたのだろうか。

あの戦争を伝承する方法として、従軍した親族の足跡を記者が公的資料で追いました。実際に請求する手続きも丁寧に説明します。

■配偶者と直系血族が…

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